出られない部屋
セックスしないと出られない部屋、だそうです。そう、でかでかと、ゴシック体で書いてあるのです。
さて、状況説明をしましょう。私は二十七歳の男です。ドクターです。名前も、自分の身分も、覚えています。ですが、ここに来るまでの、一切の記憶がございません。
床も壁も天井も、白一色です。机も棚も、冷蔵庫もありません。ただ部屋の中央に、巨大なベッドが一つ置いてあるだけです。自動ドアでしょうか。扉のようなものはありますが、ピタリと閉じて、開く気配はありません。こじ開けようにも、人間の力ではどうしようもありません。蹴っても殴っても、どうにもなりません。
よくある部屋です。なんとも雑で、醜悪なパロディです。
最悪な現実から目を背ける最良の方法とは、なんでしょうか? 答えは、眠ることです。私は床に寝転び、目を閉じました。床は固くて痛いですが、私の家の布団だって、そう大差ありません。床だって布団だって変わらないぞと、強く念じ、私は胎児のように丸まって、必死になって、意識を飛ばそうと試みました。(この時、ベッドの上で眠る気には、どうしてもなれませんでした。なぜって、あれは、セックスのための装置ではありませんか。私は性の匂いのするものに、できる限り、近づきたくないのです。)ですがどうにも、うまくいきません。そのうちに、明瞭な意識を保ったままただじっと耐えることに、かえってつらさを感じ始めてしまいましたから、私は仕方なく、体を起こして、脱出のための糸口を探すことにしました。性行為をする覚悟すら、決めました。そうです、覚悟を、決めました。
ですが、すぐに気がつきました。
肝心の相手が、いないのです。
私は困り果てました。一人でセックスをするとは、一体、どういうことでしょう。セックスとは、一人でできるものなのでしょうか。セックスとは、もしかして、自慰行為の言い換えだったのでしょうか。(ですが自慰行為の英訳は、マスターベーションではありませんか?)普段でしたら、すぐにスマホを開いて、セックスの定義を調べるところです。しかし、いくらポケットを探っても、スマホがありません。
はい、詰んでしまいました。
なんと出来の悪い悪夢でしょう。滑稽、あまりに滑稽です。人の数だけ、不幸の形はあるものですが、いやはや、まさか、私が引き当てる不幸の形が、よりにもよって、こんなものだなんて。私のような人間には、綺麗な不幸すら、贅沢品ということでしょうか。
ですがすぐに思い直しました。むしろ、これで良かったのかもしれません。こんなところに来なかったからといって、どちらにせよ、しょうもない人生だったのです。私の人生とは、明るい昼間のうちから、廃人のように寝てばかりいて、論文を放置する罪悪感だけは一丁前に抱え込み、そうして、夕方になって、今日も俺は何もできなかったと涙を流すだけのものなのです。こんな、俗悪な部屋に閉じ込められるなんてのは、不幸の責任の所在を外注するようなものであり、かえって、幸福なことなのかもしれません。
ああ、平穏。
私は部屋の角に体育座りをしました。ですが、そのうちに、そうしているのもなんだかつらくなり、体を横にして、丸まりました。
時の流れは、いつもと変わらない。
ええ、時計なんてありませんが、私はそう思うのです。多くの人にとっては、きっとこの状況は、耐え難いものでしょう。白くて何もない密室など、陳腐なSF(それも人の悪いSF)でしか見たことがありませんから。多くの人は、気が狂ってしまうかもしれません。それは状況の異様さに圧倒されてのことかもしれないし、一生ここに閉じ込められるという絶望めいた予感からかもしれないし、あるいは、人によっては、退屈からかもしれません。ですが私は、あいにくの抑うつ状態です。危機感の回路も、退屈の回路も、少しも作動しないのです。焦りも、退屈も、絶望すらも、一ミリだって、湧く気配がないのです。
頭も、体も、動かすのがだるい。
ここに、掛け布団さえあれば、最高なのですが。
……。
いつの間にか、意識を失っていたようです。依然として部屋の壁は白く、家具もなく、やはり、部屋の中央に巨大なベッドが一つ鎮座しているだけです。
なんだなんだ、寝てもダメなら、もう全部おしまいじゃないか。
てやんでいとも言いたくなる状況です。寝て、頭も少しスッキリしたのでしょう。ここでようやく、私は、本格的に探索を始める気になりました。と言っても、ベッドに近づいて引き出し(一丁前に、このベッドには引き出しがついているのです)の中のものを漁るだけです。ベッド以外に、この空間には何もありませんから。そして、ええ、はい、ありました、コンドーム。それから、ローション。
ああ、やはり、ここはセックスをするための部屋なのだ。
漠然とした悪い未来が、一気に質量を持ち、圧を伴って押し寄せてきてきました。ああ、眩暈。眩暈と吐き気がします。私はとりあえず、もう一度床に座り込みました。座り込んだからといって、何がどうなるわけでもありませんが、そうするしかなかったのです。(ちなみに、メッセージカードの類はありませんでした。少しでも主催者の意図がわかればと思ったのですが。)
いざとなったらコンドームを飲んで自害しましょう。私は前を向きました。そうしてそのうちに、こんな考えが湧いてきました。もしかしたら、時間差で、もう何分か後に、相手が現れるのではないかしら、と。そうだとすれば、相手なんてものは、永遠に現れないで欲しいかな、と。
この世界は異性愛規範に支配されています。もし、部屋の主催者・設計者・企画立案者のような人間がいて、その人間が、規範を内面化した、なんの変哲もないマジョリティであれば、きっと私に女性をあてがうことでしょう。もし女性が現れたら、私は迷わずコンドームを飲み込みます。
あるいは、主催者は、BL愛好家の可能性もあります。そうだとすれば、私には男性があてがわれることになりますが、どんな男性があてがわれるかは、やや想像が難しいところです。昨今の映えを考慮するならば、やはり、「美形」と世間が認識している造形の人間があてがわれることでしょう。しかし、あいにく、私自身も美形寄りの人間なのです。美形同士のカップリングは王道ですが、平凡な容姿の若者や中年男性が派遣され、平凡攻めやモブおじさん攻めという変化球が成立する可能性も考えられるのです。
私の人間性を考えれば、モブおじさんが妥当でしょうか。
そうだとすれば、肛門が裂けないように、今から準備をしておくべきでしょうか。いや、まだモブおじさんが来ると決まったわけではないのだから、そもそも誰かが来るとも限らないのだから、準備をするには早すぎますね。
さて、暇になってしまいました。暇。暇です。とりあえず私は、床に寝転んで、天井を見ました。真っ白な天井。ああ、暇。暇です。
抑うつの人間にとって、暇を感じられるというのは良いことです。普段であれば、自責と希死念慮、不安に押しつぶされて、暇を感じるどころではありませんから。暇というのは、回復の兆候ですらあります。ですが、よりにもよって、回復が進むのが、こんな人間性の剥奪の象徴であるような空間だというのは、どうにも納得がいきません。
ですがまあ、こんなのは、考えたって仕方のないことです。私は目を閉じました。何も考えないようにしよう。もう一度意識を飛ばせたら、なおのこといい。できる限り、体を脱力させて、呼吸を整えた時でした。
ガタリ。
何か、重く、鈍いような、形容し難い音が響きました。なんだなんだ。私はすぐさま体を起こして、音の方向を見ました。そして、絶望しました。
ああ、なんということでしょう。
子供です。
子供が、いるのです。
小学生くらいでしょうか。はい、おそらく、小学生です。何度見ても、体は明らかに、大人より小さいです。半ズボンを履いていて、膝小僧が出ています。こんなの、小学生でしかありえません。
ああ、神様。
もし、もし仮に、自殺が罪なのだとして、これはあまりにも、罰として重すぎやしませんか?(いや、まだ私は、自殺はしていないのですが……。)
私はコンドームの箱を手に取りました。開けて、袋を破って、取り出して(ああ、ぬるぬるしていて気持ち悪いです)、躊躇うことなく、口に含みました。
まっっっっず!!!!!!!
咳き込んで、吐き出してしまいました。床に、べちゃりとゴムが落ちました。
ああ、やはり。
この期に及んでも、私は死ぬことができないのです。
死ぬ才能が、てんでないのです。
水。水が欲しい。口の中があまりにも地獄めいています。はやく水で洗い流したい。しかし、この部屋には水が置いてありません。(性行為をするなら、飲み水はあった方がよくありませんか?)私は必死に唾液を出して、鼻で息をしながら、なんとか口の不快を紛らわせます。
「あの……」
「っ!」
か細い声。子供が、ああ、子供が、話しかけてきてしまいました。
「だ、大丈夫だよ」
「ぇ……」
「今、少しだけ、そうだな、ビニールを飲んだウミガメのモノマネをしていただけだから」
ああ、私は何を言っているのでしょう。今のは明らかにライン越えです。いつものお道化とパニックが最悪の形で衝突事故を起こしてしまいました。私はただ、和ませて、安心させようとしただけなのに。
「大丈夫、俺は君には手を出さないよ」
「ぇ……」
「物理的に、絶対に触れない。約束する。だから、大丈夫、安心して欲しいな」
気がつけば私の背中は、壁にピッタリくっついていました。ああ、近づかないで、近づかないで! 私を犯罪者にしないでください!
「あの、僕、迷惑ですよね……」
「え?」
「わかってるんです、僕は迷惑かけてるんだって。でも、どうしたらいいか、わからなくて、でも、僕、気がついたら、一人でここにいて、でも、ここがどこか、全然わからなくて……」
「ああああ、そうだよね、俺も、俺もなんだ。俺も迷惑で死んだ方がいい人間で、どうしてここにいるかも、ここがどこかも、全然わからないんだ」
最悪な同調をしてしまいました。私は子供の保護責任すら果たせない、人間の屑です。
「落ち着いて、考えようか。大丈夫、きっとどうにかなるよ。大丈夫、一緒に、ここから出る方法を考えよう。大丈夫、一生ここに閉じ込められるなんてことには、ならないから……」
本当に、私は何を言っているのでしょう。さっきまで、本気で、ここで一生を終えることを考えていたというのに。脱出の方法なんて、とんと見当がついていないというのに。
これが、大人というものでしょうか。知らないのに、知っているふりをする。何も大丈夫でないのに、大丈夫なふりをする。学生の身分を続けていると、つい忘れがちですが、そうです、私はもう二十七なのです。もう、十分に、大人の年齢なのです。
「あの、僕、どうすればいいですか?」
子供が聞いてきました。不安の発露というより、決意に満ちた、仕事を探す目をしています。この子は、自分にできることを探そうとしています。なんたる能動性でしょう。私の子供時代とは大違いです。
「そうだな……君にはじっとしていて欲しいかな。危険があるかもしれないから……」
いえ、本当は、「あるかもしれない」どころではなく、本当に危険なのですが(私は性教育の必要性を感じていますが、この時期の子供にコンドームを見せる是非までは、検討する余裕がありません)、おや、あれ、嘘、なんで、どうしましょう、子供が、泣きそうな顔になってしまいました。
もしかして、今の言葉で、役立たず認定されたと思ったのでしょうか。
背中に冷や汗がじわりと滲んでいきます。そんな、そんなつもりはなかったのに、こんな、ほんの少しの言葉の綾で、傷つけてしまうなんて。ああ子供とは、大人とは、人間とは、なんと難しい生き物でしょう。
いえ、傷つけるつもりはなかったなんていう、私の意図などどうでもいいのです。傷つけてしまったという、ただ一点だけが重要なのです。早く、フォローしなければなりません。
しかし、フォロー? フォローなんて、どうすればいいのでしょう。
何を言っても、不正解であることはわかるのです。正解だけが、わからないのです。
「君は……セックスを知っているかな……?」
「え……」
「あそこに書いてあるでしょう……セックスしないと出られない部屋って……」
「はい……」
「いや、この際、君がセックスを知ってるかどうかは問題じゃないね……。とにかく知って欲しいのは、セックスっていう概念は、俺にとって扱うのがものすごく難しい話なんだよ……。難しいっていうことを知ってほしいんだ……。セックスの話はね、小学生くらいの子供にぶつけると、普通にトラウマになる可能性があるんだ……いや、これは一般論だから、君個人がどうなのかはわからないけれど……問題なのは、少しでも傷つけてしまう可能性が”存在する”っていうことなんだ……可能性の存在を、俺は、恐れているんだよ……」
何を、言っているのでしょうか。
「セックスっていうのは、知ったら即アウト……つまり、学校の怪談と同じなんだよ……」
本当に、何を言っているのでしょうか。
「教育倫理のプロなら違うのかもしれないけれど……」
なんの、補足でしょうか。
「だから、つまり、その……」
「あっ、あの、僕、ちょっとだけセックス知ってます!」
「え?」
今、なんと言いました?
「ちょっと屈んでください! ん! これで、どうですか!」
今、何をされました?
落ち着いてください。
はい、私は頬に、キスされました。
「……!!!??!??!?」
「こうたろ……保護者の人が、言ってました。セックスって、仲の良い人……その、友達じゃなくて、ラブラブっていう意味で……が、することだって。だからこれでどうかなって思ったんですけど……えっと……変、でしたか……?」
はい、それは変です。
ですが直後、何か小さな舌打ちのような音とともに、カチャリと、ドアの鍵が開くような音が響きました。
「あっ、開いた……んじゃないですか……?」
子供が扉に駆け寄って、手をかけます。横開きのドアが、すっと音を立てずに開いていきます。(自動ドアではなかったのですね。)
「あ、開きましたよ!」
子供は興奮したように頬を赤くして言いました。ですが私の心は、それどころではありません。
子供と、セックスしてしまった。
セックスとみなされる行為を、してしまった。
行為の内容はどうでもいいのです。それを、セックスだとみなされてしまったことが、問題なのです。それがセックスであると、ラベル付けされたことが問題なのです。
セックスであると、承認されてしまったのです。
神に問う。無抵抗は罪なりや?
いまに、ここから出ても、自分はやっぱり性犯罪者、いや、変態ペド野郎という刻印を額に打たれる事でしょう。
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。
「あの! い、行きませんか!」
「ああ……そうだね……。出ようか……」
私は子供に先導されて、呆けた頭のまま、のろのろと歩き出しました。扉を開いて、長い、長い階段を上りました。上った先には、新横浜駅と書かれた大きな建物がありました。新横浜。ここは、新横浜だったのです。
「とりあえず……警察に行こうか」
それから私たちはしばらく歩き回り、交番を見つけて、全てのいきさつを話しました。もちろん、脱出に至った経緯も話しました。警察には、見逃されました。しかし、深く刻まれた刻印が消えることなど、ありはしませんでした。
子供は警察に保護され、私は解放されました。
スマホは、ありません。帰宅のために、どの路線を使えばいいのかも、よくわかりません。あの空間の正体も、なぜ私があそこに入れられたのかも、わかりません。一切の問題は、解決していません。ですが、もう良いのです。
今はとにかく帰りたい。
帰って、布団にもぐりたい。
リスペリドンを、飲みましょう。そうしてただ、何もせず、じっと、横になりましょう。
それだけが、ただ一つの、願いなのです。
ただ、一切は、過ぎていく。
人々が行き交う往来の中、ふと、空を見上げました。
新横浜の上空は、妙に青く、澄んでいました。
ー終ー