恋人のやり方がわからない 1
1
さて自己紹介をしましょう。私は十七の高校生です。名前は成瀬律といいます。そこそこの進学校に通っていますが、成績は普通です。
自分で言うのもなんですが、それなりに見た目が整っている方です。小学生の頃なんかはかっこいいかっこいいともてはやされ、告白なんてものもされたりしました。ですがその頃は、誰かと付き合うよりも、一人本を読んだり絵を描いたりする方が好きでしたから、全て断らせていただきました。中学でも高校でも、自分が陰でかっこいいと言われているのは知っていました。
ですが高校とは不思議なもので、容姿が優れていることそれ単体では、あまり価値を持たないらしいのです。
私は大半の時間を、一人で過ごしています。
そして私には、学校文化がよくわかりません。
部活には入っておりませんし、友達 を作ることにも関心が持てません。文化祭では、大半の時間をトイレにこもって過ごしました。一つのトイレにこもり続けていては迷惑なので、トイレをハシゴするのです。私はそういう人間なのです。
こんな有様なのですから、恋愛は、言うまでもないでしょう。
今日の昼休みも、私は早々に弁当を食べ終え、一人、読書をして過ごしていました。といっても、本の中身はあまり頭に入ってきません。私は人の声のするところでは、集中できない性質なのです。ではなぜこんなことをしているのか? 孤立による羞恥から身を守るためです。これでも一応、周りの目を気にするだけの社会性はあるのです。では友達を作ればいいではないか……それとこれとは話が別です。
友達と話すためには、いくつもの暗黙のルールを理解しなければならないではありませんか。私にはそれが苦手なのです。どうやら裏では共有されているらしい、なんだかよくわからないルールを破らないよう、慎重に慎重に、細心の注意を払いながら話すなど、私には苦行にしか思えません。
声が、聞こえてきます。部活がどう。彼氏がどう。彼女がどう。あの先生がどう。推しがどう。
あそこに自分が参加していなくて、心底よかった。
私はそういう人間なのです。
2
その日の夕方には雨が降りました。まさに「しとしと」という擬音の合う、控えめな雨です。普段部屋の中から見ている分には、強く打ち付けるような豪雨の方が好きなのですが、下校という移動の用事がある場合には、断然、今日のような静かな雨の方が都合のいいものです。
それでもまあ、濡れはするのだろうな。
私は折りたたみ傘を出しました。
どうせ濡れるなら、全身で浴びてみたらどうだろう。
……なんていうのは、昔からよく考えている夢ではありました。ですが厄介なことに、私には中途半端に社会性があるのです。人のいる場所で、傘も差さずにゆったりと歩くことなど、とてもじゃありませんが恥ずかしくてできません。せいぜい傘を忘れたフリをして走るのがやっとです。そんなものでは、情緒もへったくれもありません。
ですが、ふと気づいてしまいました。
学校の敷地内。
みんなが部活をやっている時間。
今、誰もいない。
……やるなら、今では?
善は急げです。幸いにも、今持っているのは折りたたみ傘でした。私はキョロキョロとあたりを見回して、誰もいないことを確認すると、サッと傘を閉じて、ろくに畳まず、急いで仕舞いました。
夢の傘なし歩行。
冷たい。
九月でも、雨は冷たい。
心地良い……のかは、わからない。
ですがとりあえず、そのまま、ゆったりと歩いてみました。濡れた前髪が、ぺっとりと額に張り付きます。うざったい。けれどそれもまた風情か。とりとめなく考えながら、なんとなく、上を向いて歩いていた時でした。
「おい」
突然、背後から声をかけられました。
「っ……!」
不意打ち!?
私はバッと振り返りました。サッと相手の顔を確認し、誰かと思えば……私と同じクラスの男子生徒でした。
この人……。
確か名前は、五十嵐悠介くん、だったか。
私よりも背が高くて、黒い猫っ毛をしていて、いつも無愛想で何を考えているのかわからず、それでいて、妙に綺麗な顔をしている男子生徒。彼もまた、私と同様、カーストの外側で一人ぼんやりと窓の外を眺めているような、そんな生徒でした。
しかし彼が、なぜ?
「何か、用かな?」
私は精一杯の社交用笑顔を張り付けて言いました。そしてすぐに気がつきました。
五十嵐くんもまた、傘を差していない。
しかし右手には、大きめのビニール傘を持っている……。
……。
……本当に、なんの用だ?
「……何かな?」
私が笑顔を張り付けたまま首を傾げると、五十嵐くんは、
「成瀬、傘忘れたのかと思って」
と、なんでもないように言いました。
……。
……見られていた!?
真っ先に思ったのはそれでした。羞恥。冷や汗。最悪です。わかりますか、無防備に浸っているところを見られる、あの時特有の恥ずかしさを!
私はもう、恥ずかしさでバクバクです。それなのに五十嵐くんはといえば、そんなものなど一切気にせず、カバンの中をガサゴソと漁ると、「これ、使えよ」と真っ黒な折りたたみ傘を差し出してきました。
傘。
真っ黒。
イメージ通りすぎる……。
いや、何を考えているんだ。
「……貸してくれるの?」
私は必死に恥ずかしさを振り払い、必死の社交用笑顔で言いました。すると五十嵐くんは、「そうだよ。お前、そんなんじゃ風邪引くぞ」と、妙に真っ直ぐな目で返してきました。それはまた、随分と保護者のようなことを言う……。
「ありがとう。でも五十嵐くんも、傘差さないと風邪ひいちゃうよ」
私は必死に高校生らしい返しを考えて、小さく笑いました。ちょっとだけ冗談めかした返し。これで、大丈夫でしょうか。
「……」
「……」
あれ、喋らなくなってしまった。
……。
……しくじった?
「……あっ」
いや、しくじっていない!
五十嵐くんは今気づいたかのように小さく目を見開くと、さささと自分のビニール傘を差しました。
「これでいいか?」
……なぜ私に確認を求めるのですか。
「いいと思う」
私も私で、なぜそんな返事を。
それから私たちは、静かに、二人並んで歩き出しました。二人一緒に帰る必要はないのですが、今から別々に帰りますというのも、なんだかおかしなことになってしまうわけで……。
私はチラリと五十嵐くんを見上げました。
真っ直ぐに、前だけを見ている。
……この人、雑談をする気がない?
私の視線に気づいたのか、五十嵐くんはこちらを見ると、「傘、明日返してくれればいいから」と言いました。
「ああ、うん……」
会話は、それで終わりました。
それからも、無言でした。
「じゃあ、俺、こっちだから……」
T字路で、五十嵐くんは言いました。
「うん、じゃあ、また明日……」
私がそう言うと、五十嵐くんは小さく手を上げて背を向けていきました。
本当に、会話がなかった。
私はそのまま、ぼんやりとした頭で帰宅しました。そのまま食事を摂り、そのままお風呂に入り、そのまま机に向かって、数学の参考書を開いて、いくつかの演習を解いて、集中が切れたところで……ふと思いました。
「五十嵐くん、嫌じゃなかったな……」
……。
私は参考書に戻りました。
3
翌朝私は、登校して真っ先に五十嵐くんを探しました。もちろん、傘を返すためです。
ですが五十嵐くんは、まだ来ていませんでした。私は文庫本を開きながら、チラチラと教室のドアを見ては、五十嵐くんを探します。しかし待てども待てども五十嵐くんが来る気配はなく……。
ようやく五十嵐くんが来たと思った瞬間、即座に私は立ち上がりましたが、ホームルームのチャイムに阻まれました。今まで知りませんでしたが、どうやら五十嵐くんは、ホームルームギリギリ勢であるようです。なんと迷惑な性質でしょう!
やるべきことを抱えながら何もできずに時間を過ごすというのは、どうにも落ち着かないものです。私はホームルームの間中、ずっとソワソワしながら、早く次のチャイムが鳴らないかと、机の上で固く手を組んでいました。そうしてホームルームが終わったところで、私は真っ先に五十嵐くんの机に向かいました。
「昨日は傘、ありがとう」
私は例の社交用笑顔を浮かべて、傘を差し出しました。すると五十嵐くんは、しげと傘を眺めて、それから「おう」と言いました。そうして続けました。
「体調、大丈夫だったか?」
体調……。
……濡れたことに対してでしょうか。
「大丈夫だよ。そういう五十嵐くんは?」
「ん、俺も大丈夫」
そうして、会話は終わりました。
「……」
「……」
……喋ることがないな。
「……」
「……」
あ、帰ればいいのか。
長い長い沈黙の末ようやく気付き、私は「それじゃあ行くね」と手を振って背を向けました。直前に見えた五十嵐くんは、昨日のように小さく手を上げていました。
席に戻ってからこっそりと五十嵐くんを見ると、彼は、頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めていました。
……。
それ以降、私が五十嵐くんと話すことはありませんでした。二日、三日、一週間経った今も、私たちは一言も喋っていません。ただ時折、文庫本越しに、今日も五十嵐くんはホームルームギリギリじゃないかだとか、今日も窓の外を見ているぞだとか、そんな観察をするようになったくらいです。五十嵐くんは面白い人で……予想通りの行動しかしません。
私も私で、何も変わりはありません。学校では、普通に授業を受けて、休み時間は本を読むフリをします。そうして放課後になると、真っ先に家に帰って、読んでいるフリをしていた本を本当に読んだり、なんとなく好きな絵を描いて過ごしたりしています。
4
ある休み時間、私は消しゴムを落としてしまいました。角の取れた小汚くて丸い消しゴムです。それはどんどん転がっていき……数席先まで行って、ようやく別の生徒に拾われました。この生徒(Aくんとします)は、確かサッカー部の人だったでしょうか。Aくんは無駄のない動きですっと消しゴムを拾うと、やはり無駄のない動きで私の机にやってきて、言いました。
「これ、成 瀬の?」
極めて自然体でフラット。かなり普通の高校生らしい。
そんな感じで、Aくんは、丸くて小汚い消しゴムをさっと差し出してきました。
「うん、ありがとう」
私は真似して自然体らしい笑顔を作ると、右手を出して、受け取りました。そのまま腕も、自然体らしい動きで伸ばそうとした時……私とAくんの肌と肌が、ピトリと触れました。
「ッ!」
全身がゾワリと悲鳴を上げ、消しゴムを落としそうになりました。Aくんは一瞬戸惑った様子を見せましたが、私が急いで「なんでもないよ」と笑顔を張り付けると、彼も彼でいつもの自然な笑顔に戻り、「おう」と、消しゴムを返してくれました。
そうしてAくんは、いつも属している男子グループの輪の中に入っていきました。その背中を見ながら、思いました。
やってしまった。
ちょっと触っただけであの反応は、かなり、ナシなのではないか。
人慣れしていないのが、露骨に出てしまった。
これはかなり、かなり……。
……。
いや、待て。
概ねよかったはずです。概ね。すぐにフォローしましたし、というか、Aくんがフォローしてくれましたし、全体としては、何も問題のない落とし物拾いでした。
実際Aくんは、私のことなど少しも気にしていないように、グループの中で楽しげに笑っています。
ほら、大丈夫……。
大丈夫……。
……。
私はチラリと、五十嵐くん を見ました。相変わらず窓際の席で、頬杖をつきながらぼんやりと外を眺めています。目線の向きを見るに、今は空を見ているのでしょうか。
社会の輪から外れて、何もせずに、ただぼんやりと外を見る。
そんな五十嵐くんを、私が見る。
なんか、妙に落ち着く。
……とかなんとかやっていたら、ふと五十嵐くんがこちらを見ました。
まずい!
私は咄嗟に自分の机に目線を戻しました。
すみません、何もやましい気持ちなんかないんです、本当なんです!
私は何かに向かって必死に言い訳をしました。いや言い訳というのも変です。実際、本当に、そういう気持ちはなかったわけですから!
あんな風に顔を背けるのは、あからさますぎたでしょうか。ですが 、あれは、そうするしかない状況ではありませんか? じっと見続ける方が、おかしいではありませんか。そんなの、まるでこう、意識しているかのようで。
その後私は、何事もなかったかのように教科書を机に出すと、文庫本を出して、いつものように、読むフリを始めました。大丈夫、しくじってない。大丈夫だから……。
自分の身体がひどく緊張していたことに気づいたのは、授業が始まり、しばらく経ってからのことでした。何か、ものすごく大きな何かから解放されて、ようやく、どっと、疲れが押し寄せてきたのでした。
とりあえず五十嵐くんのことは、今後、見過ぎないように気をつけましょう。それだけは、強く決心しました。
5
……なんて、決心してはみましたが、「やらない」決意をすると、かえってそればかりが気になってしまうものです。
今日は見ないぞ、今日は見ないぞと思いながら、文庫本の文字だけに集中し、五十嵐くんのものらしき足音が聞こえても知らないフリをし、そうして、授業が始まった後になって、ようやく謎の緊張から解放されるわけです。
後ろの席にプリントを回す時も危険です。なぜって、後ろの後ろの、さらに斜め後ろの窓際には、五十嵐くんがいるのですから。プリントを渡す時に振り返って後ろの席の人を見ることはあっても、五十嵐くんにだけは、決して目線を向けないようにするのです。視界の端に五十嵐くんが映った瞬間、サッと、相手か自分の机か、どこでもいいのですが……まったく別のところに意識を向けるのです。
……。
一体何をやっているのでしょう、私は。
休み時間、ついに私は、文庫本作戦をやめ、寝たフリ作戦に切り替えることにしました。物理的に突っ伏してしまえば……どうやっても見ることはできないというものです。五十嵐くんは喋りませんから、見ることさえしなければ大丈夫というもの……。
「五十嵐くーん、これ先生からー」
「おう」
……喋った。