ショコラと紅茶の魔法【2】
「よしっ。なんとか結べた!」
鏡の前で、ぴっとネクタイを整える。うん、いい感じ。初めてだったので、何分も格闘することになってしまったけれど、最終的にはなんとか自分で結ぶことができた。
ネクタイといっても、大人の人がつけるみたいなやつじゃなくて、リボンの形の、かわいいやつ。形はかわいいけれど、ワインみたいな深い赤色をしている。いつも僕が着たりつけたりするのは、柔らかい色の、子供っぽいものばかり。だからこういうネクタイには、ちょっとだけドキドキしてしまった。
「ショコラー! そろそろ時間だよー!」
一階から、パパの声が聞こえてきた。
「はーい! 今行くー!」
僕は返事をして、最後に、もう一回だけ鏡を見た。
甘いチョコレートみたいな、ふわふわの髪。大きくてまんまるの、少し薄い茶色の目。にっと笑うと、お行儀よく並んだ小さな白い歯が見える。うん、いつも通りの僕。
最後に、ぐるっとお部屋の中を見回す。それから、
「バイバイ、僕のお部屋!」
と、小さく言って、僕は一階に降りて行った。この秋から、僕は、全寮制の中学校に通うことになっていた。
パパの小さくてまんまるとした赤い車に、荷物を乗せていく。お気に入りの服とか、ママからもらった大切な人形とか、いろいろなものを詰めていたら、たくさんカバンが必要になってしまったのだった。
「よーし、それじゃあ出発するぞ」
パパに言われて、僕は助手席に座った。それから、ポケットの中に手を入れて……オッケー、無くしてない、ちゃんと持ってきてる……四つ葉のクローバーが挟んである、手のひらサイズの栞を取り出した。パパがちらっと見て、聞いてくる。
「ダイヤくんに貰ったやつかい?」
「そう!」
「はは、ショコラは本当にダイヤくんが好きだなあ」
「うん!」
僕は元気に返事をした。だって、本当に好きだから。
「会えるといいな」
「うん!」
僕はもっと元気に、返事をした。頑張って勉強して、つらかったけど、やっとの思いで入った中学校。そこには、ダイヤくんがいるんだから。
……なんて言ってたけど、学校に着いてからの僕は大忙しで、ダイヤくんのことはすっぽり頭から抜けてしまった。だって、まず、学校がすごかった。とにかく大きくて、なんていうか、お城みたいだった。変な動物のおっきな像もあるし、高い高い塔にはおっきな時計もついてる。それに 、おっきな門をくぐったら、おっきな噴水と、真っ赤なバラの咲いたおっきなお庭まであった。
「パパ、ここ、すごいね!」
「そうだね。ショコラは今日から、ここで、勉強するんだぞ」
「わあ……本当にここで勉強するんだ!」
僕はもう、胸がいっぱいになってしまった。ドキドキで心臓がおかしくなりそう!
門の外には、いろんな色の車がどんどん集まってきて、僕と同じくらいの子と大人の人が、僕とおんなじように歩いてきた。
「あの子たちも新入生かなあ?」
「そうだろうね。あの子たちの中に、ショコラとお友達になる子がいるかもしれないよ」
「うふふ、楽しみだなあ」
どの子も、キラキラして見えた。
寮の部屋の中には、まだ誰もいなかった。一つの部屋に二人が住むって聞いていたけれど、もう一人の子はまだ来ていないみたいだった。ここで過ごすための荷物が入ったカバンをおろすと、パパは手を払って言った。
「ショコラ、荷解きは一人でできるかな?」
「できるよ!」
僕は元気に返事をした。僕 だって、片付けができないほど子供じゃないんだから。でも、そしたらパパは、
「そうかそうか、ショコラは偉いな。それじゃあ、これでパパは帰るよ」
なんて言った。
「えっ」
僕はちょっとびっくりしてしまった。だって、こんなすぐに、パパが帰っちゃうなんて思っていなかったから。
「もう帰っちゃうの……?」
「ああ、学校に大人が長居しちゃいけないからね」
「そっか……」
「ショコラならきっと大丈夫。素敵なお友達と出会って、楽しい毎日を過ごせるって、パパは信じてるよ」
「うん」
「最後におまじないをしようか」
「うん!」
それから僕とパパは「二人だけの秘密のことば」を言って、ギュッてハグをした。
「いってらっしゃい。素敵な毎日を!」
「うん!」
僕はパパの背中が見えなくなるまで、手を振った。手を振りながら、僕は胸がきゅっとなってしまっていた。「素敵な毎日を」だなんて、大人の人同士でしか聞いたことがないのに、それが、まさか、僕に言われるなんて!
それから、僕は部屋に戻ると、カバンを開けて荷物を広げた。服はクローゼットに入れて、ペンとか消しゴムとか定規は、机の上に置いて、ママからもらったお人形はベッドの上に……。とにかくお洋服が多くて、僕は途中で、疲れてぽんやりしてしまった。手を動かして、ぽんやりして、手を動かして、ぽんやりして……そんなことをしていたら、ドアの外から、男の子の大きな声が聞こえてきた。
「大丈夫だって! だから、入ってこなくていいよ!」
「でも、モカ……」
「だから平気だって! 恥ずかしいから、入ってこないで!」
「うーん、じゃあお父さん、ここで帰るからな……」
「うん! 帰って!」
それからちょっとしょんぼりしたような足音が、遠ざかっていく。それで、僕がドアの方を見ていたら、ちょっと怒ったような顔の男の子が入ってきた。でも怒った顔をしていたのは一瞬で、男の子は、僕の顔を見ると、恥ずかしそうに「あっ、えっと……」と顔をそらした。僕は「大丈夫だよ!」と言おうと思ったけれど、うまいこと声が出なかった。
「えっと、ルームメイトの人……だよね?」
男の子が、話しかけてきた。
「あっ、はい! 僕、ショコラっていいます!」
「僕はモカです……あの、おんなじ歳だよね? 敬語じゃなくて、タメ口にしない……?」
「あ、うん、そうだね! よろしく!」
「うん、よろしく……」
そう言うと男の子……モカくんは、手を出してきた。僕がその手をとって握手すると、モカくんは「じゃあ僕、荷物片付けるから……」と、向こうを向いてしまった。
僕も片付けに戻る。けれど、背中を向けているモカくんを、僕はつい、チラチラと見てしまった。黒っぽい髪の毛だけど、光が当たると、ちょっと苦い、大人のチョコレートみたいな色になる。子供なのに、大人みたいにセットしてある。それに何より、さっき見た、目の色……あれが、深い森みたいな、吸い込まれそうな緑色で、忘れられなかった。
パチっと、モカくんと目があってしまった。僕はあわてて自分の荷物の片付けに戻った。
気がつくと、いつの間にか時計の針は一時になっていた。
「ええっ、もうこんな時間!」
僕の片付けは、まだ全然終わっていなかった。
後ろを見ると、モカくんが腕を組んで、こっちを見ていた。モカくんのカバンの空になっていて、机の上はきれいに整とんされていた。
「ショコラくん、片付け苦 手なの?」
モカくんははっきりそう聞いてきた。
「うん、そうかも……」
僕はちょっと恥ずかしくて、下を見てしまった。小学生みたいだと思われちゃったかもしれない。けれどモカくんは、
「手伝ってあげようか?」
と、言ってきた。
「え! いいの?」
「いいよ。僕、いっぱい弟がいるからね」
「うん……?」
モカくんの言っていることは、ちょっとだけ、よくわからなかったけれど、でもモカくんは手伝ってくれて、みるみるうちに荷物は片付いてしまって、僕にはモカくんがすごい大人に見えた。
「ショコラくんは、なんでこの学校に来たの?」
「えっ」
モカくんは突然聞いてきた。
「僕は”エリート”になるために来たんだけどね。ショコラくんもそうなの?」
「えーっと、僕は……」
ちょっと迷ったけれど、モカくんみたいないい子には、教えてもいいかなと思った。
「僕、好きな男の子がいて、二歳年上の子なんだけど、その子に会いたくて来たんだ!」
言いながら、ちょっとだけ顔が熱くなってしまった。ダイヤくんのことを知らない人に言うのは、これが初めてだった。
モカくんは、びっくりしたみたいに、大きく目を開いていた。完全に「予想外!」っていう感じで。その反応に、逆に僕もびっくりしてしまった。だって、好きな子に会いたくて来るのは、パパも応援していたし、普通のことだと思っていたから……。
「えっと、変かな……?」
僕は不安になって、モカくんに聞 いてしまった。けれど僕がそう言うと、モカくんは急いで首を振って、「変じゃないよ!」と言った。
それから、コホンと大人の人みたいに咳払いをして、落ち着いた声で「いいと思うよ」と言った。そのあと、「その好きな子ってどんな子なの?」と聞いてきた。僕は、その子がダイヤくんっていう名前で、白いキラキラの髪をしていて、銀色の目で、かわいくて、綺麗な男の子だっていうことを言った。ダイヤくんにもらった四つ葉のクローバーの栞も見せた。モカくんは「へえ」と言っていた。それから、
「僕、応援するよ」
と言って小さく笑った。
言ってよかった!
モカくんに応援してもらえて、頼もしくって、僕は嬉しくなってしまった。
そのあと、モカくんと僕は一緒に学校の中を探検することにした。とにかく廊下がすっごく長い! それに、壁は全部石でできていて、なんだかすごくかっこいい。窓にはキラキラの絵が描いてある。モカくんは「ステンドグラスだね」と言った。それから、「あれって天使だよ」とも言った。ドアの隙間から教室の中を見てみると、ガラスでできた、不思議な形の道具がいっぱい置いてあった。
お庭に出ると、お花の甘い匂いがした。噴水から出る水が光っている。石でできた道を歩いていると、上級生みたいな人が、赤いジャムの乗ったクッキーと紅茶を囲んで、お喋りしていた。みんなカッコよくて、キラキラして見えた。
「ねえ、僕たちも上級生になったら、あんな感じになれるのかな?」
僕が聞いたら、モカくんは「うん、頑張ったらなれると思う」と言った。それから、二人で「じゃあ頑張って、一緒になろうね!」と約束した。
図書館に行くと、天井までくっついてしまうくらい大きな本棚がたくさん並んでいて、二人でびっくりしてしまった。僕が住んでいた地域の図書館の、十倍くらいあるんじゃないかと思った。モカくんが住んでいたところの図書館も、こんなには大きくなかったらしい。この図書館には大きなガラスの窓があって、外の光が入ってくるから、中もすごく明るい。それと、なぜかいろんなところに植物が置いてあった。まんなかの大きなテーブルでは、たくさんの上級生が本を読んだりお勉強をしたりしている。
その中で、一人だけ気になってしまった人がいた。
銀色のフチの丸いメガネをつけている、びっくりするくらい綺麗な人だった。まつ毛が長くて、木苺みたいな真っ赤な目で、ほおづえをつきながら、静かに本を読んでいる。長くてツヤツヤしたクリーム色の髪の中に、その人の目と同じような、まぶしいくらいの赤色が、ところどころ混じっている。それを、後ろで一つの三つ編みにしている。
その人が顔を上げると、ばちん と僕と目が合ってしまった。その人は小さくニコッと笑うと、また本に目を戻した。僕は恥ずかしくなって、思わずモカくんの方を見てしまった。モカくんもちょっとだけ顔を赤くしていて、二人で、「綺麗な人だね……」とちっちゃい声で言った。
夜になると、僕とモカくんは食堂に行った。食堂の天井にはまんまるのオレンジの明かりがぽんぽんとついていて、ものすごく長いテーブルが並んでいて、テーブルの上にはろうそくが置いてあったりして、こんなにおっきいところでご飯を食べるのかと、僕はまたまた驚いてしまった。モカくんは「さすがにもう慣れたよ」と言っていたけれど、ちょっとソワソワしていた。
僕はたっぷりソースがかかったハンバーグにした。モカくんはとろとろのクリームシチューを食べていた。周りを見てみると、他にもおいしそうなものを食べている人がいっぱいいた。中には見たことのないものを食べている人もいた。モカくんが「あれはカツレツっていう外国の食べ物だよ」と教えてくれたけれど、モカくんも食べたことはないみたいだった。
学校のハンバーグは、いつも僕が食べ ているよりもちょっとだけ大きい気がして、僕はすぐにお腹がいっぱいになってしまった。そのあと、二人で夜の探検をする約束をしていたけれど、僕もモカくんも眠くなってしまったので、探検はやめにして寝ることにした。
部屋に戻って、シャワーを浴びにいって、また部屋に戻ってきたら、僕はすぐにお気に入りのパジャマに着替えた。首のところに赤いリボンがついてる、白くてふわふわのパジャマ。モカくんは僕が着替えたところを見て、驚いたような顔で「かわいい!」と言ってくれた。それからモカくんはコホンと一つ咳払いをして、「ネグリジェってやつだね」と、今度は落ち着いた声で言った。
「これ、ネグリジェっていうの?」
「そうだよ。知らなかった?」
「うん。ずっとパジャマって呼んでた」
「これ自分で選んだの?」
「うん。これが一番かわいいと思ったから」
「いいセンスだね」
モカくんは、深緑の、襟がついたパジャマを着ていた。大人っぽくて、モカくんによく似合っていた。
そのあと、モカくんとちょっとだけお喋りして、九時くらいに寝てしまった。お喋りの中で、モカくんと僕は別のクラスなのがわかって、ちょっとだけしょんぼりしたけれど、帰ってきたら会えると思ったら、それも平気だった。