ショコラと紅茶の魔法【4】
保健室のベッドで、僕はずっと横になっていた。廊下にいた時みたいな苦しさはおさまったけれど、まだ心臓はドキドキしていた。
ダイヤくんの顔を思い浮かべると、胸がつまってしまう感じがした。
十一歳の頃のダイヤくんは、スマートな子だったけれど、それでも、もっと、柔らかい感じの子だった。優しくて、溶けちゃうくらい、かわいい顔で笑う子だった。
なのに、さっきのダイヤくんは……。
チクチクする。胸の奥の方が、ずっとチクチクする。
ダイヤくんが変わってしまったことが、さみしいはずなのに、ダイヤく んが冷たい顔をするようになってしまったことが、悲しいはずなのに、廊下を歩いていたダイヤくんは、うっとりしてしまうくらいにかっこよくて、とろとろのチョコレートみたいに甘い気持ちになってしまう僕もいた。そんなのは、どう考えても変で、僕は嫌な気持ちになった。
「うぅ……」
頭の上まで布団をかぶって、ぎゅっと丸まった。とにかく、つらかった。
そんなことをやっていた時だった。
「ショコラくん……」
突然、カーテンの向こうから、知らない、大人のお兄さんの声が聞こえてきた。控えめで遠慮しているみたいに、小さな声。それでいて、変な言い方だけど、なんとなく甘酸っぱい感じがする、不思議な声。
「起きてるかな……?」
「はい……」
僕は小さく返事をした。
「よかった……ねえ、紅茶いれたんだ。元気が出るように、ね。よかったら飲まないかい……?」
言われてみれば、カーテンの向こうから、フルーツみたいな甘い匂いがする気がする。
「あ……」
知らない人の親切に、僕はちょっとだけ嬉しくなった。けれど、どうしても、今は飲む気になれなかった。今飲んだら、気持ち悪くなってしまう気がした。
「ごめんなさい……今は、飲めないです……」
「そっか、無理しないで。テーブルに、置いておくからね。よかったら後で飲んで。冷めてもおいしいはずだから……」
それから、ドアが開いて閉まる音がして、人の気配がパッタリ消えてしまった。それからしばらくして、別の人が入ってきて、椅子に座る音が聞こえた。たぶん、養護教諭の先生が戻ってきたんだろうと思った。それを聞いて、僕はもう一回目を閉じた。目を閉じていたら、いつの間にか寝てしまった。
「ショコラくん、もう大丈夫なの!?」
全部の授業が終わった後に、モカくんとエクレアくんが保健室に来てくれた。僕はベッドに座って、「うん、だいぶよくなった」と返した。エクレアくんは「よかった〜!」とにっこり笑ってくれて、モカくんは眉毛を下げて小さく笑っていた。それからエクレアくんは勝手に僕の隣に座って、授業であったことをたくさん教えてくれた。エクレアくんが楽しそうに話すから、さっきまでの嫌な気持ちがちょっとだけまぎれて、僕はちょっとだけほっとした。
夕方になったら、三人で早めのごはんを食べに行くことになった。モカくんは「ご飯は食べれそう?」と聞いてくれた。僕は「残しちゃうかも……」と言ったのだけど、そうしたらエクレアくんが、「そしたら僕が食べてあげる!」と言ってくれた。
食堂では、僕はハンバーグを選んだ。残してもエクレアくんが食べてくれるって言っていたから、僕は好きなメニューを選ぶことができた。
席につくとエクレアくんは、ちょっと迷うような感じで目をキョロキョロさせた。何かな、と思っていたら、エクレアくんは気を遣うような感じで、「なんでああなっちゃったか、聞いて もいい……?」と聞いてきた。僕が「えっと、なんで僕が苦しくなっちゃったかってこと?」と聞き返すと、エクレアくんは「うん」とうなずいた。隣でモカくんが、「勝手に言わないほうがいいかなと思って……」と小さく言ってきた。
「えっとね……」
僕はゆっくり、ダイヤくんのことを話した。小さい頃、ダイヤくんと仲良しだったこと。僕がダイヤくんを好きなこと。ダイヤくんに会いたくて、この学校に来たこと。でも、ダイヤくんが変わっちゃって、ショックを受けてしまったこと。
モカくんにはもう言った内容もあったけれど、モカくんもエクレアくんも、真剣な顔で聞いてくれた。
喋っているうちに、昔のダイヤくんを思い出して、また悲しくなってしまった。胸がチクチクして、目の奥がじんわり熱くなってきてしまった。でも、みんながいる前では泣きたくなかったから、頑張って抑えた。
二人とも、ちゃんと聞いてくれた。僕は、ダイヤくんが変わってしまって悲しかったことは、ちゃんと言えた。けれど、悲しいはずなのにうっとりしてしまったことだけは、どうしてもうまく言葉にできなくて、ぐちゃっとなってしまった。言おうとしてみたけれど、途中で言葉が出てこなくなって、最後には「ごめん」と言ってしまった。二人はいいよと言ってくれた。でも僕は、自分が変な人間になってしまった感じがした。
「ねえモカくん、これ、代わりに持っててくれない?」
おやすみを言う前に、僕は、モカくんに四つ葉のクローバーの栞を渡した。モカくんはびっくりしたみたいに、大きく目を開けていた。
「でもこれ、ダイヤさんがくれた、大事な……」
「うん、でも、今見ると、なんか、つらくなっちゃうんだ……」
なんでなのかよくわからないけど、と付け足したけれど、もにょっとした声になってしまって、もしかしたらモカくんには聞こえなかったかもしれない。
モカくんは「別にいいけど……」と、受け取ってくれた。受け取ってくれたけれど、まだよくわかっていないような顔で、目をパチパチさせていた。僕はもっとちゃんと説明しなきゃと思ったけれど、なんでつらくなっちゃうのか、自分でもよくわからなくて、説明なんかできなかった。
・ ・ ・
「ねぇショコラ、こっち見て」
「ショコラの目はきらきらしていて綺麗だね」
「ショコラの口、ふっくらしていてかわいいな」
「ショコラ、触ってもいい……?」
「ショコラ、目、閉じて……」
「ダメだよダイヤくんっ!!!」
気づいたら、大声を出していた。いつの間にかダイヤくんは消えていて、目の前には、真っ暗な天井があった。 心臓がバクバクしている。背中は汗でじっとりしていて、手を動かすと、ふかふかの布団の感触が伝わってきた。
「夢……」
耳をすますと、モカくんの寝息が聞こえてくる。僕は胸に手を当てて、ゆっくり、息を吸ったり吐いたりした。
僕はすぐに、見ちゃいけない夢を見ちゃったのだとわかった。けれど、もう一回目を閉じて浮かぶのは、さっきのダイヤくんの顔だった。大人っぽくて、かっこいい、ダイヤくんの顔。他の誰も見ないで、まっすぐに、僕だけを見てくれた、ダイヤくんの……だめ、そんなこと思っちゃいけない!
思っちゃいけないってわかっているのに、夢の中のダイヤくんはどんどん薄くなっていって、それが、どうしてもさみしくなってしまう。もっと見たかったなって、思ってしまう。僕は保健室でやったみたいに、頭まで布団を被って、ひざを抱えて丸まった。心臓がぎゅっとなって、苦しかった。こんなのは初めてで、とにかく怖 かった。
……だけど、いつの間にか寝ていたみたいで、次に目を覚ました時には、朝になっていた。
「おはよう、ショコラくん」
ベッドから起き上がると、モカくんはもう起きていた。時計を見るとまだ六時半くらいで、僕はびっくりしてしまった。だってモカくん、昨日はあんなにお寝坊さんだったのに。
「なんか……起きちゃった」
モカくんは小さく笑った。それからほっぺたをポリポリかいて、ポソっと言った。
「ショコラくん、大丈夫かなって、思って……」
「え……心配してくれたの……?」
「うん、まあ……」
そう言ってモカくんは、ちょっとだけ目を逸らした。
嬉しい……。
モカくんが気にしてくれたことに、僕はぽっと胸があたたかくなった。そのまま、昨日見た夢のことも話してしまおうかなと思ったけれど、うまく言葉が出てこなくて、結局やめてしまった。普通のダイヤくんの話はできるのに、昨日の夢だけは、どうしてか、妙に恥ずかしくなってしまった。
教室に行ったら、エクレアくんも「大丈夫?」と聞いてくれた。
「みんな、昨日ショコラくんが休んで、心配してたんだよ?」
「そうなの?」
「うん、みんな黙ってたんだけど、僕が話しかけたら、ショコラくん心配だねって言ってた!」
僕はびっくりしてしまった。みんな、僕のことを気にしてるなんて思っていなかったから。
それからチャイムが鳴って、ビスコッティ先生が入ってきて、朝のお話の時間が始まった。今日のお話はそんなに長くなくて、すぐに終わった。終わってから、ビスコッティ先生が僕のところに来て、「ショコラ君、昨日は大丈夫でしたか?」と聞いてくれた。僕が「はい、大丈夫です」と言うと、ビスコッティ先生は「それはよかった」と、優しくにっこり笑った。
「困ったことがあれば、いつでも相談してくださいね。私も、他の大人たちも、ショコラ君の力になりたいと思っていますから。大人には言いにくいこともあるかもしれませんが……そうしたら、友達や上級生に頼ってくださいね」
それからちょびっとだけ、カウンセラーっていう人のことを教えてくれて、ビスコッティ先生は行ってしまった。僕は先生のふっくらした背中を見ながら、やっぱり行かないで欲しい……なんて思ってしまった。
そのあと、知らない三人の男の子が僕の机に来て、「昨日、大丈夫だった?」と聞いてくれた。僕は「ありがとう、大丈夫だよ」と返した。それを聞くと、男の子たちはパタパタと早歩きでどこかに行ってしまった。いつの間にか横にいたエクレアくんが、「あれ、照れちゃったかな」と言った。
「ショコラくん、次の移動教室、一緒に行こ!」
エクレアくんは、いつも通りの顔で笑った。昨日の怖かった気持ちが、ちょっとだけやわらいだ気がした。でも、完全には消えなかった。
「ねぇねぇ、二人はクラブとかどうするの?」
お昼ごはんで、エクレアくんは、僕とモカくんに聞いてきた。
「僕は写真クラブと、ダンスクラブと、演劇クラブと、あと、学生新聞の記者の人もやりたいな!」
エクレアくんはニコニコしながら言った。エクレアくん、そんなに考えてたんだ。
クラブ……全然考えてなかった……。
「僕はバスケットボールかフットボールがいいかなって思ってる」
モカくんは落ち着いた声で言った。モカくんも、考えてるんだ。
「ショコラくんは?」
「うーん、考えてなかった……」
「そうなの? じゃあ僕と一緒に演劇クラブ行こうよ! ショコラくん、絶対活躍するよ!」
「そうかなあ……」
放課後になると、エクレアくんはダンスクラブの見学に行ってしまった。モカくんも多分、バスケットボールかフットボールのクラブの見学に行っているはず。
「うーん、どうしようかなぁ……」
することがなくなってしまって、とりあえず外に出てきた。この前探検した時と同じように、空は晴れていて、お花の甘い匂いがずっとしている。クラブのことがズラッと載った紙を見て、歩いていた時だった。
ドン! と、何かにぶつかってしまった。
「いてて」
「前見て歩けよ殺すぞガ キ……」
「えっ」
今ガキって言った? 殺すぞって言った???
見上げると、びっくりするくらいに透き通った、青緑の目のお兄さんがいた。
お兄さんは、紺色の作業着みたいな服を着ていて、同じ色の帽子を、目のところが影になるくらいに深く被っている。髪は明るい青緑。前髪は目の上でぱっつんになっていて、肩くらいまでの長さの髪を、下の方でくるっと二つのお団子にしていた。目の下には黒いクマがあって、そのせいで逆に、青緑の目が浮かび上がっている。声は大人の男の人というより、男の子みたいにちょっと高めで、クマのせいで惑わされたけれど、よく見たら、女の子みたいにかわいい顔をしていた。
「何見てんだガキ……」
「あっ、えっと……」
青緑のお兄さんは、じっとこっちを見ている。僕はたじたじしてしまって、何か言わなきゃと思って、あんまり考えないで発言してしまった。
「えっと、本物の子供にガキっていう言い方をするのは、逆に、子供っぽいと思います……」
しん……と空気が静かになった。お兄さんはまだじっとこっちを見ている。僕は変なことを言っちゃったかなと思って、かあっと顔が熱くなってしまった。
「えっと……」
何か言い直そうと思って、でもさっき何を言ったのかちゃんと覚えていなくて、どうしようか迷ってしまった時だった。
「ヘッ、言うじゃん」
青緑のお兄さんは、口の右側だけを上げて、小さく笑った。
「ただのぽわぽわしたガキかと思ったら……気に入った、クッキーでも買ってやろうか……」
「あっ、いえっ、大丈夫です……」
僕がそう言うと、「ふーん」と、聞こえるか聞こえないくらいの声が聞こえてきた。
僕は、チラッとお兄さんの顔を見た。僕は早くどこかに行くべきなのに、しかも、この人はガキなんて言ってくる怖い人のはずなのに、なぜか、妙に離れたくなかった。この人も綺麗だけど、ダイヤくんみたいなキラキラした綺麗さじゃなかった。モカくんみたいな優しさも、エクレアくんやビスコッティ先生みたいな優しさも全然ないのに、なぜかそれが、逆に安心してしまった。
昨日から僕は、変な気持ちになってばかりだった。
「あの、お兄さんは、この学校の人ですか?」
「俺? 用務員だよ」
「用務員さん……初めて見ました……」
「そりゃそうだろうよ……」
「はい……」
「……」
また、しん……と静かになってしまった。僕がもじもじしていると、小さくため息のような音が聞こえてきて、それから、今度はお兄さんの方から話してくれた。
「お前なんか悩んでんのかよ」
「えっ……」
「そりゃなんの紙だ」
「あ、えっと、クラブ活動の案内です……」
「ふーん、クラブな……懐かし……俺はだるかったからやんなかったな……」
お兄さんは何かブツブツ言っていた。
「あの、僕、何かクラブに入った方がいいのかなって思ってるんですけど、入りたいクラブがなくて、迷ってるんです。友達はみんな、何かに入るみたいなんですけど……」
「いや……友達に合わせる必要なんかないだろ……」
「え……?」
「いやさ……入りたいクラブがないんなら、どう考えても無理に入る必要なんかないだろ……」
「そうなんですか……?」
「目立たないだけで、クラブ入んないやつなんかいくらでもいるよ……俺もそうだったし……てか、そうじゃなかったとしても、その程度の規範なら合わせる必要もねえって……」
そのあともお兄さんは、小声でブツブツ、何かを言っていた。
きはん……。
難しい言葉を使われちゃったけど、大人扱いしてもらえているみたいで、ちょっとだけ嬉しくなった。
それからお兄さんは、さっきよりもはっきりした声で、言ってくれた。
「入りたくなったら入りゃいいよ。クラブなんか、途中からでも入ったり抜けたりできるんだからな……たしかに新学期スタートのタイミングで入る方が、いろいろ楽だけどさ。ピンとこないなら保留しときゃいいよ……」
それからお兄さんは、また声を小さくして、ブツブツと何か言い始めた。
そっか、無理に入らなくてもいいんだ。
「あの、ありがとうございます。ちょっと迷ってたのが、すっきりしました。気が向いた時に、気になったところに見学しに行って、ゆっくり考えてみます」
「ああ……そうかよ……」
それからまた、お兄さんと僕は黙ってしまった。
でも、さっきより静かさが嫌じゃなくなっていて、やっぱり僕は、昨日から変な気持ちになってばかりだと思った。
そうだ、この人に、ダイヤくんのことを相談してみようかな。
この人は、いろんなことをわかっていそうな大人だから、ダイヤくんのことにも、頼もしいアドバイスをくれるかな。
でも、どうやって説明しよう……。
僕が考えていたら、「じゃあな、俺は仕事だ」と声が降ってきた。お兄さんが、背中を向けて歩いて行ってしまう。
「あ、待ってください!」
「あん?」
「あ、その、えっと、お兄さんのお名前は……」
「ベリル」
「え?」
「ベリルだ。じゃあな」
そう言って、お兄さん……ベリルさんは、どこかに行ってしまった。