ショコラと紅茶の魔法【5】
「モカくん、見学はどうだった?」
シャワーのあと、部屋の中で僕とモカくんはお喋りしていた。
「うん、今日はフットボールの方を見に行ったんだけど、いっぱい新入生がいたよ」
「へぇ〜」
「人数が多くてさ、やっぱり人気みたい。あ、上級生はみんな優しかったな」
モカくんはその他にもいろんなことを喋ってくれた。練習はあんまり厳しくないから、勉強と両立しやすいんだ、とか。もうちょっと悩んでから決めようかな、とか。
「ショコラくんは放課後どうしてたの?」
「うーん、僕はお庭歩きながら、ずっと考え事してたかなぁ」
「そうなんだ、素敵だね」
「あっ、そうだ。僕、用務員さんとお話もしたよ」
「へえ、どんな?」
「クラブの相談に乗ってくれたんだ」
「そうなんだ」
それから僕は、ベリルさんと話したことをモカくんに教えてあげた。モカくんは「面白いこと言う人だね」と言ってくれた。
この日、僕はエメラルドの海の夢を見た。夢の中に、ダイヤくんは出てこなかった。
次の日、エクレアくんはダンスクラブのことを話してくれた。
「お試しで上級生が、やり方を教えてくれたんだけどね、僕、才能があるかもしれない!」
そう言うとエクレアくんは、机をよかしてスペースを作って、床に肩をつけて、そのまま勢いよく体全体を持ち上げて、ぐるんぐるん回 り始めた。
「わっ、わっ、すごい!」
ずっと昔にテレビで見た、ダボっとした服を着ている外国の人たちの、すごいダンスみたいだった。
「えー! エクレアくん、すごいね!」
「えへー、ありがと! 上級生にも褒められちゃった!」
「でも、想像してたダンスと違った!」
「うん、いろんな種類のダンスやってるんだって! さっきのはその中の一つ!」
エクレアくんは、 えっへん、という感じで言った。
お昼ごはんは、いつも通り、モカくんと合流して三人で食べた。その帰りに、紺色の作業着の人が、廊下の天井の電気を修理しているのを見つけた。近づいてみて、青緑の髪の毛がチラッと光るのが見えて、すぐに昨日のベリルさんだとわかった。
声をかけようかな、と思ったけれど、仕事中に邪魔しちゃいけないと思ったから、僕はそのまま通り過ぎた。けれど代わりに、二人に言ってみた。
「あの人、昨日僕が話した用務員さんなんだ」
そうしたら、二人はちょっと驚いた顔をした。モカくんは「えっ、すごい怖そうな人だったよ」と言って、エクレアくんは「えー、僕はすごいかわいい人だと思ったけどなあ! 」と言った。僕は「どっちもの人だよ!」と言った。それから二人とも、「あんな人と喋ったのすごいね」と言ってくれて、僕はちょっと誇らしくなってしまった。
僕は、あの人殺すぞガキなんて言うんだよ……って言おうかと思ったけれど、それはやめておいた。なんとなくそれは、心の中にしまっておきたい気がした。それに、この二人にそんなカゲキな言葉を聞かせたら、二人ともひっくり返ってしまうかもしれなかった。
放課後は、なんとなくやってみようと思って、購買でスケッチブックを買って、お庭のバラの絵を描いてみることにした。本当に、なんとなく、思いついてやってみようと思っただけだった。絵はそんなに描いたことがなかった。
石の道を歩きながら、お庭をじっくり眺める。ゆっくり歩いて、五分くらい見たんじゃないかと思ったところで、一つ、大きくて綺麗な形をした、真っ赤 なバラを見つけた。
バラの前でしゃがんで、スケッチブックを開いて、鉛筆をささっとやってみる。何本か線を重ねてみたら、なんとなくそれっぽくなった。
上級生たちのおだやかな声と、コツコツとしたかたい靴の音、遠くの噴水のザーっという音だけが、静かに響いている。いつのまにか、その全部の音が、遠くに聞こえる。花びらを重ねて、重ねて、ようやくバラっぽいものが描けてきた、その時だった。
「昨日のガキじゃん」
頭の上から声が降ってきた。
「ベリルさん!」
透き通るような青緑の目。ベリルさんが、いつもの作 業着姿で、僕のことを見下ろしていた。
「デッサンか?」
「あ、はい、そうです!」
「ふーん、いいじゃん」
ベリルさんは帽子のツバを少しだけ上げて言った。
「椅子、座んねえの?」
「あ……椅子……なんにも考えてませんでした……」
「ふーん、おもろ……。まあでもそれで足痛くなんねえのは、さすが、ガキの体だな……」
「いや、足は痛いです……」
「え……あっそ……」
「はい……」
「……」
ベリルさんのシンプルな相槌で、また静かになってしまった。僕は何を話そうかなと、ちょっと考えて、今日のことを言うことにした。
「ベリルさん、今日、電気直してましたよね」
「割といつも直してるよ……」
「僕、横通りました」
「見てたよ」
わ、気づかれてたんだ! 僕はちょっとワクワクしてしまった。
次は何を言おうかなと考えていたら、ベリルさんは隣にしゃがんで、逆に僕の方に質問してきてくれた。
「お前、絵好きなのか?」
「はい! えっと、前までは好きだと思ってなかったんですけど、今日やってみたら、けっこう楽しいです!」
「ふーん、いいじゃん……」
「あ、でも、初心者なので……」
「なんで? うまいよ」
「え、ほんとですか……!」
「うん。お前、美術クラブとかは入んねえの?」
「うーん、考えてなかったです……」
「クラブの話で迷ってたじゃん。ちょうどいいんじゃねえの?」
「でも、クラブに入らなくても、絵は描けますよね?」
「そうだな」
「じゃあなんで、クラブに入るんですか?」
「知らねえ」
「知らないんですか?」
「俺はクラブとか入ってなかったからな……」
「そうですか……」
「ああ……」
「……」
また、静かになってしまった。
「じゃ、俺もう行くわ」
「え、行っちゃうんですか!」
「一応仕事中だからな。じゃあな」
そう言って、ベリルさんは僕の返事も待たないで行ってしまった。
ベリルさんの背中が見えなくなってから、そういえばベリルさんに名前教えてなかったなと、思い出した。
パジャマ姿で、ベッドの上をごろごろ寝っころがりながら、僕は一人でスケッチブックを眺めていた。
「えへ、ベリルさんに上手って言ってもらえた……」
そのうちにモカくんが帰ってきて、「それ何?」と聞いてきた。僕がスケッチブックを見せると、モカくんは「わ、上手だね!」と言ってくれた。
「ショコラくん、絵描いてたの?」
「ちゃんとやったのは今日が初めて!」
「そうなんだ。ねえ、明日エクレアくんにも見せてあげない?」
「うん!」
そのあと僕とモカくんは、寝るまで絵しりとりをして遊んだ 。
「わあ! かわいいバラだね!」
お昼の食堂の席でエクレアくんにスケッチブックを見せたら、エクレアくんはキラキラの目で褒めてくれた。モカくんもいるところで見せたかったから、お昼に見せることにしたのだけど、大成功だった。横にいるモカくんもニコニコしてくれている。僕は二人を見て、ほかほかしてしまった。
それから三人で、いろんな話をした。
「聞いて! 昨日はね、学生新聞作ってる人たちのところに行って、いろんな話聞いてきたんだ!」
エクレアくんは、楽 しそうに言った。
「それでね、面白いニュース聞いちゃったんだけど……」
「なになに?」
「それがね……」
「うん……」
「あ……」
「うん……?」
「これ、上級生には言わないでって言われてたんだった! やっぱ今のなし!」
「えぇー」
エクレアくんはたははと笑った。それから、「上級生がいいよって言ったら、二人にも教えてあげる!」と言った。
「なんで上級生がいいよって言わないと、教えられないの?」
僕が聞くと、エクレアくんは「うーん、僕もよくはわかってないんだけど……」と言ってから、
「ちょっとだけ怖い事件だし、まだわかってることがあやふやだから、不用意に不確かな情報を流すと、みんなが混乱してしまうかもしれない! ってことらしいよ」
と言った。
「へえ……」
僕は、わかるようなわからないような感じだった。
・ ・ ・
あれから何日か、僕は”普通の”毎日を送っていた。モカくんとおやすみとおはようを言って、エクレアくんとクラスで一緒になって、授業を受けて、三人でお昼ごはんを食べて、放課後にはいろんな場所に行ってお絵描きをした。モカくんやエクレアくんと、図書館でお勉強会をする日もあった。
ダイヤくんが夢に出てきて、怖くなる日もあったけれど、一回経験したことだったから、胸のドキドキも最初ほどじゃなかった。廊下でダイヤくんに会うこともなくて、残念なような、安心するような、不思議な気持ちになった。
その日も普通のはずだった。
三人で、食堂で、エクレアくんと知り合いになった面白い上級生の話とか、モカくんのクラスの先生がちょっと怖い話とか、そういう「なんでもない話」をしていた。ほんとうに、なんでもない話。
三人で、ただ楽しくお喋りしながら、ごはんを食べていた。
それだけの、はずだった。
「ねえ、僕、今朝ダイヤさん見かけたんだ!」
突然、後ろの席から、そんな声が聞こえてきた。
「ええ! 珍しいね!」
「うん! 光ってて、すっごい綺麗な人だった!」
「ええー、いいなあ」
「あとね、いろんな人に囲まれてた! やっぱり人気者なんだなあ!」
「ねえ〜!」
あの。
何が、「ねえ〜!」なの?
誰が、ダイヤくんの話をしてるの?
誰が。
「ショコラくん、どうしたの……?」
「えっ」
「顔、すごい怖かった……」
「えっ」
二人を見ると、モカくんもエクレアくんも、うっすら青い顔をしていた。僕は一気に恥ずかしくなって、顔が熱くなってしまった。
「えっと、僕、そんなつもりなくて……」
「うん……」
「ごめん……」
「いいよ……」
モカくんもエクレアくんも「気にしてないよ」と言ってくれたけれど、僕は恥ずかしくて小さくなってしまった。
午後の授業は、歴史だった。最初は集中していたけれど、途中で、ふと、食堂で聞いた声が浮かんでしまった。
「すっごい綺麗な人だった!」
そこからは、もうダメだった。胸の奥からムカムカしてきてしまって、気がついたら、ぎゅっとペンを、折れちゃいそうなくらい、強く握りしめていた。
僕の方がダイヤくんを知っているのに。
僕の方が、ダイヤくんを好きなのに。
ずっとダイヤくん のそばにいたのは、僕なのに。
放課後、僕はスケッチブックを持って、バラの絵を描きに庭に出た。あの時、ベリルさんと話したところと、まったく同じところに行った。そこに行けば、ベリルさんに会えると思ったから。
ベリルさんなら、ブツブツした声で、「そりゃカスだな」とか言ってくれるかな。食堂の男の子たちのことを、強い言葉で切ってくれるかな。いつものむすっとした顔で、僕の味方を、してくれるかな。
バラはあの時より、少し、しおれていた。もう、あんまり綺麗なバラじゃなくなっていた。だけど僕はスケッチブックを開いて、そのバラを描いた。一回描き終わっちゃったけれど、ページをめくって、もう一回同じバラを描いた。夕方、暗くなるまでやっていたけれど、ベリルさんと会えることはなかった。
「モカくん、この前預かってくれた栞、見せてくれない……?」
シャワーを浴びて、部屋に戻ってきたモカくんに、僕は言った。どうして栞を見たくなったのかはわからなかった。自分とダイヤくんが仲良しだった証拠を、もう一回ちゃんと確認したいと思ったのかな、と思ったけれど、本当にそれだけなのかは、わからなかった。
「いいけど……」
モカくんは引き出しを開けて、「はい、これ……」と出してくれた。
「ありがとう……」
僕は両手を出して受け取った。四つ葉のクローバーの、押し花の栞。ダイヤくんがくれた時から、変わらないまんまの、小さな栞……。
「ショコラくん、これあげる!」
小さなダイヤくんの笑顔が、ふっと浮かんだ。
かわいいかわいいダイヤくん。
綺麗な綺麗なダイヤくん。
綺麗じゃない、僕。
「ショコラくん、大丈夫……?」
顔をあげると、モカくんが心配そうに僕を見ていた。それを見た瞬間、溢れてしまった。