ショコラと紅茶の魔法【6】
朝起きると、時計は六時五十分だった。おどろいた。昨日あんなに泣いたのに、こんなにちょうどいい時間に起きられるなんて。
だけど体は重くて、起きなきゃいけないとわかっているのに、言うことをきいてくれなかった。
いやだな。起きたくないな。
ぐずぐずの気持ちになってしまって、僕は、いけないとわかっているのに、頭から布団を被ってしまった。
目を閉じてじっとしていたけれど、いつの間にか、外はもっと明るくなっていて、時計を見たら七時半を過ぎていた。そっと頭を持ち上げたら、向こう側のベッドで、モカくんはまだ寝ていた。そっか、そうだよね、昨日、あれだけ遅くまで、なぐさめてくれたもんね。
僕はのそのそ布団から出て、モカくんを起こしに行った。ゆっくり寝かせてあげたかったけど、学校に遅刻してしまうのは、もっとかわいそうだと思ったから。
「モカくん、朝だよ……」
何回か強くゆすったら、モカくんはむにゃむにゃ言いながら起きてくれた。モカくんは時計を見た途端、「えっ、もうこんな時間!」と慌ててパタパタと身支度を始めた。けれど僕は、それを見ても、動く気になれなかった。
制服に着替え終わったモカくんは、ピタッと止まって、僕を見た。
「ショコラくん、今日、休む……?」
僕はちょっと迷ってから、「うん」と言った。それから、モカくんが出ていくのを見送って、もう一回布団にもぐった。
目を閉じたけれど、もう眠ることはできなかった。頭の中ではずっと、黒いうずがぐるぐるしている感じがして、おかしくなってしまいそうだった。そのうち、じっとしていることもできなくなってしまって、ベッドからごろんと勢いよく転がって飛び出した。
お腹から、床にドンと落っこちて、痛さと苦しさでいっぱいになった。
「う……」
痛いのと苦しいので、うまく息ができない。何回か吸って吐いて、吸って吐いて、それから、なんで僕はこんなことをやっているんだろうと思って、悲しくなってしまった。
ごろんと上を向いて寝転がると、窓からの光が、僕の目にチョクゲキした。
「まぶしっ……」
こんなに悲しいのに、外は明るかった。
十時になるかならないかくらいの時間、僕は制服に着替えて、一人でお庭に出た。もう、いいや! って気持ちだった。
生徒が授業を休んでお散歩しているところを見たら、ビスコッティ先生は怒るかな? でも、あの優しそうな先生が怒るところは、どうやっても、全然想像できない。
ベリルさんなら、今の僕を見ても、怒らなそうな気がする。それどころか、「ふーん、いいじゃん」とか言ってくるかもしれない。だってベリルさん、なんかそういうの好きそうだから。でもベリルさん、意外 とこういうことには、厳しかったりするのかな……。
お庭には、いつもならたくさんの人がいるのに、授業中だからか、今は誰もいなかった。そのおかげか、ざーっという噴水の音がやけによく聞こえる。僕は噴水の前に行って、地面にちょこんと座った。噴水の水は、透明で、不思議な動きをしていて、キラキラしていて、なんだか、僕のぐるぐるも洗い流してくれる感じがした。
なんか、見ちゃうな。
ずっと、こうしていたいな。
そうやって、ぼんやりしていた時だった。
「あれ? こんな時間におチビちゃんがいるなんて、珍しいね」
頭の上から、男の人の声が聞こえてきた。どこかで聞いたことがあるような、甘酸っぱい感じのする、不思議な声。
見上げると、明るいオレンジ色の髪をした、綺麗なお兄さんが笑っていた。知らない人だった。
「えっと、お兄さんは……」
「俺は五年生だよ。よくこの時間、ここを散歩してるんだ」
「授業は……」
「もちろん、勉強はするよ? でも俺、体が弱くてみんなと授業受けられないんだ」
その人はなんでもないように言った。
そっか、学校にはそういう人もいるんだ。僕は納得して、「そうなんですね」と言った。
お兄さんの目は黒っぽい茶色だった。落ち着いた目だけど、目尻のまつ毛だけがぴょんと跳ねていて、みょうに大人っぽく見えた。髪の毛は、甘いオレンジ色で、見れば見るほどツヤツヤしている。柔らかくて、穏やかで優しいけれど、どこかいたずらっ子みたいでもある、不思議な笑い方をする人だった。
「俺はアプリコット。ねぇショコラくん、一緒にお茶しない?」
「えっ、お茶ですか!」
「そう。今なら貸し切りだよ?」
「でも僕、お茶とかよくわからなくて、作法とか、マナーとか、変なことしちゃうかも……」
「大丈夫、俺が教えてあげるよ」
そう言って、お兄さん……アプリコットさんは、僕の手をとった。
「まあ、マナーなんてものはないんだけどね」
アプリコットさんは、にこっと笑った。
僕はアプリコットさんに手を引かれながら、心の中でちょっと困っていた。勢いでお茶のお誘いに乗っちゃったけど、ほんとによかったのかな……って。だって僕は授業を休んでいるんだし、アプリコットさんは初対面なんだし、そもそも僕は、ダイヤくんのことで真っ黒なうずに飲まれていたわけなんだし……。
「ショコラくんは、あの時の紅茶、飲んでくれたかな?」
突然、アプリコットさんはそう聞いてきた。僕のぐるぐるはふっと消えて、代わりに、僕の頭は目の前のアプリコットさんのことでいっぱいになった。
「あの時の紅茶……」
僕がそう言うと、アプリコットさんは「保健室の」と言った。
「あ……」
思い出した。僕が保健室で寝ていた時に、紅茶を出してくれた人がいたんだった。その紅茶を出してくれた人が、アプリコットさんだったんだ!
でも、あれ? 僕はその紅茶をどうしたんだっけ? 出された時は、気持ち悪くて飲めなかったんだった。でも、そのあとは……?
「ショコラくん?」
「あっ、えっと……」
ごめんなさい、覚えてないです、と、言おうと思った。正直に言わなくちゃと思った。けれど、アプリコットさんの目を見たら、どうしてか、口がうまく動かなくなってしまった。じっと、まっすぐに、こっちを見る目。あんまりにも、真剣な目……。
「えっと、おいしかったです……」
気がついたら、僕はそう言っていた。言ってから、なんで僕は嘘をついちゃったんだろうと思ったけれど、もう言い直せなかった。
それを聞いて、アプリコットさんは目を細めてにっこり笑った。それから、「よかった」と言った。
「あれは特別な一杯だから、もう出せないんだ」
アプリコットさんはそう付け足した。僕は、アプリコットさんを悲しませずに済んだことと、嘘をついてしまったことと、そんな大事な紅茶を飲めなかったことが、ごっちゃり混ざって、変な気持ちになってしまった。
「あそこにしよう。今の時間は木陰になるんだ」
アプリコットさんは僕の手を引いて、大きな木の下のテーブルに連れて行ってくれた。僕が「木陰の方がいいんです か?」と聞くと、「日光に当たってると疲れちゃうから」と教えてくれた。
「ショコラくんは座って待ってて。今からお茶の用意してくるから……」
「えっ、僕もお手伝いします!」
「いいんだよ。ショコラくん、学校でのお茶は初めてだよね? 最初くらい上級生に格好つけさせてよ」
それからアプリコットさんは、「ね?」と、首を傾げてにこっとした。
「えっと、それなら、お願いします……」
僕がそう言うと、アプリコットさんは「うん」と頷いて、「さ、座って」と椅子を引いてくれた。
僕はそのまま椅子に座った。こんなに良くしてもらっていいのかな……と思ったけれど、そのことをどうやってアプリコットさんに伝えればいいかもわからなくて、結局、黙ってしまった。
アプリコットさんは「待ってて」と言って、どこかに行ってしまった。言われた通りに待っていると、「ただいま」と、お茶セットを持ったアプリコットさんが帰ってきた。両手に銀色のトレーを持っていて、その上に、ティーカップとか、クッキーとか、ポットとか、いろいろなものが乗っている。そんなふうに、バランスよく運べるのはすごいなと思った。まるで、絵本に出てくる執事の人みたい。
アプリコットさんは、テキパキとテーブルにセットを並べていった。本当にすごうでの執事さんみたいだった。
「ふふ、おいしそうでしょう?」
「あ っ、はい! おいしそうです!」
僕はつい見とれてしまっていた。だって、こんなのは初めてだったから!
白くておしゃれなお皿には、丸くてかわいいクッキーが並んでいる。どのクッキーにも、赤とか青とかオレンジ色のジャムがちょこんと乗っていて、宝石がキラキラしているみたい。ティーカップとポットには、くるくるのツタみたいな、おそろいの金色の模様がついている。アプリコットさんがポットからお茶を注ぐと、ふんわり甘い匂いが広がった。
「ローズヒップティーだよ。薔薇が綺麗な庭だからね、最初のお茶には、ちょうどいいかと思って」
アプリコットさんはポットを置いて、そう言った。それから、指でこんこんと、白と茶色の角砂糖が入ったビンをたたいて、「お砂糖は好きなだけ入れてね」と言った。
「あっ、ありがとうございます……」
その仕草がなんだか大人の人みたいで、僕はちょっとだけ照れてしまった。
そのあと少し迷ったけれど、結局、お砂糖は入れないことにした。いつもならいっぱい入れるけれど、今日は甘くないのにチャレンジしてみたくなった。
「さ、飲んでみて。おいしくできてるといいけど」
アプリコットさんに言われて、僕は紅茶に口をつけてみた。
「あついっ!」
思ったよりも熱くて、ビクッとしてしまった。アプリコットさんは笑っている。ちょっと恥ずかしかったけれど 、今度は落ち着いて、ふーっとしてから、もう一回飲み直した。
「……おいしい」
「よかった」
アプリコットさんは、いつの間にか頬杖をついて、にこにこしていた。
「アプリコットさん、おいしいです!」
「うん、よかった」
お砂糖がなくてどうなるかと思ったけれど、思ったよりもちゃんと飲めた。大人の仲間入りをしたみたいで、ワクワクした気持ちになった。
「俺も飲 もうかな」
そう言ってアプリコットさんは、片手でカップを持ち上げて、すっとお茶を飲んだ。僕は自分が両手でカップを持っているのに気がついて、慌てて右手を離した。
「ショコラくんは、何か悩み事があるのかな?」
「えっ、なんでわかるんですか」
「見てればわかるよ」
そう言ってアプリコットさんは、頬杖をついて優しく笑った。
「俺でよければ言ってみなよ」
「え……」
「こういうのって、案外、全然知らない他人の方が言えたりするものだよ」
「そうなんですか……?」
うーん、そうなのかな……。でも確かに、ダイヤくんのことでぐちゃってなっちゃった時、一番に相談したいと思ったのは、ベリルさんだった。実際に慰めてくれたのはモカくんだったけど。
アプリコットさんは、何か期待するみたいに、じっと見ている。
相談、してみようかな。
モカくんの前で泣いちゃった時は、泣いてるばかりで、話なんか全然できなかったし。
それに、この上級生なら、僕のぐちゃっとした気持ちも受け止めてくれる気がする。
「あの、僕、好きな人のことで悩んでるんです」
「うん」
少しだけ勇気を出して言ってみたけれど、アプリコットさんは優しく頷いてくれた。それから、目で「続きは?」と言われている気がしたので、どう言うと伝わるかなと考えながら、話を続けてみた。
「好きな人、ダイヤくんなんです」
「へえ、ダイヤくん!」
「僕、ダイヤくんとは、ずっと小さい頃からの友達だったんです。ダイヤくんは僕より二歳年上なんですけど……ダイヤくんがこの中学校に受験するって聞いて、僕も一緒になりたくて、僕も受験して、ここに来たんです」
「うん」
「でも来てみたら、ダイヤくんはみんなの王子様になってて、知ってたダイヤくんじゃなくなってたんです」
「うん」
「それだけでも嫌な気持ちになってしまったんですけど、そのあと、他の人がダイヤくんの話をしているのを聞いて、僕、もっと嫌な気持ちになってしまったんです。その人のこと、なんか、グチャってしたいなって、思っちゃって……」
「うん」
「それで僕、なんでこんな気持ちになっちゃったんだろうって、悲しくなっちゃったんです。ただダイヤくんが好きなだけだったはずなのに、他の人を傷つけたいって思っちゃって、こんなの、ひどい人じゃないかって思って……」
あれ、こんな話だったっけ? 喋っているうちによくわからなくなってしまった。うっとりの話も、ベリルさんに会おうとした話もしていない。でも、もうどう直せばいいかわからない。
「えっと、ごめんなさい、こういう話するの初めてで、ちゃんと話せなくて……」
「恋だね」
「え?」
「典型的な、重くて、まっすぐな恋。ショコラくん、本当にダイヤくんが好きなんだね」
「え……」
アプリコットさんは、すっと紅茶に一口、口をつけて、それから言った。
「恋をして自分が自分じゃなくなったように感じるのは普通だよ。好きな人を自分だけのものにしたいと思うのも普通。他人に嫉妬するのも普通」
「そっ、そんな、自分のものにしたいなんて……」
顔がカアっと熱くなってしまった。そんな言い方、なんか、なんか……。
「でも、そっか、ダイヤくんかあ。大変な相手を好きになっちゃったね」
「でも僕、この学校に来る前から好きだったんです!」
「そっかそっか、うん、わかってるよ」
アプリコットさんは、ふふ、と笑った。僕はまた恥ずかしくなってしまった。それからアプリコットさんは、テーブルの上で手を組んで、真面目な顔をして言った。
「俺から何か言うなら、ダイヤくんにもっと近づいてみたらどうかなってところかな。遠くから想ってるだけだと苦しいからね」
「近づくって、僕も王子様になればいいってことですか?」
「ふふ、違う違う。ダイヤくんと仲良くしようとしなってことだよ。 まあ、ショコラくんたちはもともと仲が良かったみたいだから、仲良くし直すって感じだけどね」
「でも、そんなこと、できるかな……」
「ショコラくんは、この学校に来てからダイヤくんとは喋ったのかな?」
「えっと、まだです……」
「なら話しかけるところから始めなくちゃね。悩むのはそこからだよ」
「でも、ダイヤくんがいつもどこにいるかなんて、知らなくて……」
「俺は知ってるよ」
「えっ?」
「晴れてる金曜日の放課後、中庭の一番大きい木の下で、本を読んでいることがある」
「そうなんですか?」
「確率的には四分の一ってところかな」
「カクリツテキ……」
「まあ毎回いるってわけじゃないんだけどね。でも、会えるとしたらそこが確実だよ。親衛隊も気を遣ってるのか、ダイヤくんの読書中は囲まないようにしてるみたいだしね」
「そうなんですか……でも、そしたら、僕も、邪魔にならないように話しかけないようにしないといけないんじゃ……」
「ショコラくんは親衛隊じゃないでしょ? それなら話は別だよ」
「そうなんですか……?」
「あっ、そうだ、ショコラくん、話しかける時に一緒に俺も行ってあげようか?」
「えっ?」
「もちろん、俺は二人の会話には入らないよ。そうじゃなくて、ショコラくんがダイヤくんの前に出る前に、背中を押す役をやってあげようかって話」
「えっ、そんな、いいんですか?」
「もちろん……」
その時、鐘の音みたいなチャイムが鳴った。
「ああ、もうこんな時間なんだ。じゃあ俺、そろそろ行かないと」
そう言って、アプリコットさんは立ち上がった。
「ショコラくん、今日はお茶してくれてありがとう。俺、放課後もこの辺にいることが多いんだ。もしよければ、またお茶しようよ」
それからアプリコットさんは、僕の返事をあんまり待たないで、ささっと食器を片付け始めた。