黒猫のあしあと 10
土曜日、僕と孝太郎さんは、二人で学校に向かっていた。別に学校で何かするわけじゃない。目的はただ、俊介くんと合流すること、それだけ。
結局僕たちは、あれから一週間後の土曜日に、一緒にお出かけすることになったんだった。
歩きながら、いつも通り、孝太郎さんは僕の手を握っている。学校近くに来ると、俊介くんが、校門前で、ポケットに手を突っ込みながら、キョロキョロ周りを見回しているのが目に入った。俊介くんはまだ僕たちに気づいていない。少し見上げて、「俊介くん、もう来てますね」って、孝太郎さんに言おうとした時だった。
急に、孝太郎さんは、パッと手を離した。まるでそれは、投げ捨てるように。
えっ。
「俊介くん、もう来てるね。俺たちも結構早めに出たはずなんだけど」
孝太郎さんは、前を向いたまま、小さく笑う。
えっ?
なんで何事もないように笑ってるの。
僕が気にしすぎなだけなの?
俊介くんが僕たちに気づいて、大きく手を振った。孝太郎さんも、それに合わせて手を上げる。
そうだよね、投げ捨てられたなんて、僕の気のせいだよね。
僕も二人に合わせて、小さく手を振った。
「土曜日なのに学校にいるの、変な感じ!」
合流して一番に、俊介くんはそう言った。「そうだね」と、孝太郎さんが笑った。
「駅までちょっと歩くけど、頑張れるかな?」
孝太郎さんがそう言うと、俊介くんは「ラクショーです!」と笑った。僕の「大丈夫です」という声は、風にかき消されてしまった。
ショッピングモールに行っても、僕たちがやったことは、いつものお出かけとほとんど変わらなかった。本屋に行って、フードコートでご飯を食べて、クレープを食べて、カフェに行って……あ、カフェに行ったのは、珍しかったかも。俊介くんはその全部に目をキラキラさせていて、なんでこの程度のことで、と思ってしまって、すぐに、なんでそんな意地悪なことを考えちゃったんだろうと思って、自分がすごく嫌になった。
孝太郎さんと俊介くんは、ずっと喋っていた。
「孝太郎さんって、頭良くて、俺のパパと話してるより全然面白い!」
俊介くんは、フードコートでラーメンをすすりながら、そう言った。孝太郎さんは「そっか」と笑うだけだった。
ねえ、その言葉、聞いたことあるよ。
じゃあ、僕は何?
お腹のあたりで、黒いモヤモヤが、ぐるぐると動き回っている 感じがした。こんなこと思っちゃいけないのに、なのに、俊介くんが、急に、ぐにゃりと歪んで見えて、それで……だめだ、それ以上言っちゃいけない。
「すみません、トイレ行ってきます……」
僕はなんだかそこにいるのがつらくて、本当は行きたくもないけど、トイレに逃げてしまった。背中の方から、孝太郎さんの「場所わかる?」という声が聞こえてきたけれど、振り返りもしないで「大丈夫です」と言ってしまった。
トイレに行きたいわけではなかったから、トイレの入口の横、ちょうど孝太郎さんと俊介くんが見えない位置で、背中から壁にもたれかかった。きっと、俊介くんは、孝太郎さんと二人きりの方が楽しいんだ。孝太郎さんも、俊介くんと二人で話したいんだ。
二人から離れたら、驚くほど息ができて、永遠にここにいたいと思った。もう、二人のところに帰りたくなくなった。
目の前を、何組もの親子連れが通り過ぎていく。どの人たちも、明るい顔で、楽しそうで、僕みたいに、黒いモヤモヤなんか、少しも持っていなさそうで、なんで僕だけがこんな嫌なことを考えてしまうのだろうと思って、そしたら、目がじわりと熱くなってしまった。
帰りたくない。
けれど、そろそろ戻らないと、怪しまれちゃう。
深呼吸してから、僕がテーブルに戻ると、やっぱり二人は楽しそうに話していた。孝太郎さんは僕に気づくと、「おかえり」と言って、それから、「今ね、湊の話をしてたんだよ」と笑った。俊介くんも、にこにこしながら僕を見ている。
僕の話……?
一瞬、僕の気持ちはふわりと浮き上がった。なんだ、二人とも、僕のことを迷惑だと思ってたわけじゃなかったんだ。二人とも、僕のことを話題にしてくれるくらい、僕のことを……。
「湊くん、将来は科学者になりたいんだね!」
「え?」
「あと目玉焼きが好きって話も聞いたよ! 俺、目玉焼きは醤油派なんだけど、湊くんはケチャップなんだね!」
「あ……」
ちらりと孝太郎さんを見ると、どこか満足げな顔で、俊介くんを見つめていた。
もう一回、俊介くんを見る。俊介くんは無邪気に笑っている。
いや、
違うよ、本当は僕は、科学者なんて興味ないよ、目玉焼きなんか嫌いだよ。
でも、これは、全部、全部、孝太郎さんについてきた嘘だったから、僕は何も言えなくなってしまった。孝太郎さんにとっては、僕が科学者になりたいのも、目玉焼きが好きなことも、本当のことなんだ。
「俺さ、湊くんの夢、応援するよ!」
「……」
「俺も頑張るから!」
「……ありがとう」
言ってしまった。もう、違うって言えなくなってしまった。
俊介くんはにっこり笑っていた。孝太郎さんも、にっこり笑っていた。僕の心は、白い修正液で消されて、それで、その上に、新しい僕を描かれてしまった感じがした。しかも新しい僕は、昔の僕よりも、ずっと、整っていて綺麗だった。
本屋では、僕たちはずっと、子供向けのコーナーにいた。大人向けの科学のコーナーには行かなかった。
俊介くんは、派手な表紙の本を手に取っては、パラパラと中身をめくって、すぐに元の場所において、さらに派手な表紙の本を取って……ということを繰り返していた。孝太郎さんは、じっとその様子を見ている。僕は、興味がなかったけれど、俊介くんにならって、同じように本を手に取って眺めた。
「孝太郎さん! 〇〇現象ってなんですか?」
俊介くんは、一冊の本を広げて、孝太郎さんに見せた。
「それはね……」
孝太郎さんは丁寧に解説し始めた。
僕は一人で、それを目の端っこだけで見ていた。
その後、僕たちは本屋を出ることになった。いつもは必ず行くのに、今日は科学書のコーナーに行かなかったことが不思議で、孝太郎さんに聞こうと思ったけれど、でもすぐに、孝太郎さんの考えていることがなんとなくわかった気がしたから、僕は黙った。きっと、俊介くんのことを気づかって、行かなかったんだろう。別に、僕だって行きたかったわけじゃ……。
「湊は今回、ちょっと物足りなかったかな?」
「え?」
突然、孝太郎さんは言った。
「だって、今日は生物の棚に行かなかったからね」
「え、なに、生物の棚って!」
横から俊介くんが割り込んできた。孝太郎さんは俊介くんの方を見ると、優しく言った。
「湊はね、いつも、大人が読むような、生物の教科書の棚に行くんだよ」
俊介くんは、それを聞いて「すっげー!」と顔を輝かせた。
「湊くんって、やっぱりすごいんだね!」
僕はもう、何も言う気が起きなくなってしまった。
最後に僕たちは、ショッピングモールから少し歩いて、おしゃれなカフェに入った。カフェの中は、壁とかが木でできていて、オレンジ色の電気がついていて、植物がいっぱい置いてあった。いつも思うけれど、こういうカフェに、小学生なんてのはほとんどいなくて、こんな場所に自分みたいな人がいることが恥ずかしくなってしまって、僕はおどおどしてしまう。けれど俊介くんは、小声で「すっげー!」とか、「こんなとこ来るの初めて!」とか言って、ただただ楽しそうにしていた。
俊介くんは大きなパンケーキ、それも、山みたいにホイップがかかっているものを頼んで、一気に食べてしまった。孝太郎さんはコーヒーを飲んでいた。僕はオレンジジュースだけをちびちび飲んでいた。
カフェの中で、僕はほとんど黙っていた。俊介くんと孝太郎さんが勝手に話すから、僕は話さなくていいと思った。多分、学校の話とかをしていたのだと思うけれど、僕はぼーっとしてしまって、あまり聞いていなかった。聞いてなんかいなかったのだけど……
「俺、湊のお父さんと、恋人だったんだ」
えっ。
突然、そんな言葉が聞こえてきた。オレンジジュースから顔を上げると、俊介くんは真剣な顔で、孝太郎さんを見ていた。孝太郎さんの顔は、なんというか、どう言えばいいかよくわからない顔をしていた。
「ずっと、お互いがお互いのことを好きだったんだけどね。湊のお父さんは、結婚するために俺と別れて、別の女の人と付き合うことになったんだ」
「え! 湊くんのお父さん、ひどい!」
「ううん、ひどくなんかないよ。湊のお父さんが結婚したいっていうのは、俺も納得してたし、湊のお父さんの考えることは、尊重したいって思ったからね」
「でも孝太郎さん、悲しくなかったんですか?」
「悲しかったよ。湊のお父さんと別れるってなった時は、眠れなかったし、ご飯も食べられなかったしね。でも、前を向かなくちゃって思ったから。頑張って、落ち込まないようにしたんだ」
「えー、すごい……」
その後は、僕が生まれて、僕が幼稚園の時にパパとママが事故で死んで、孝太郎さんが僕を引き取って、今みたいになった、っていう話をしていた。俊介くんは、ずっと、なんだか感動しているっぽい顔をしていた。
「どうかな? こんな話だけど、面白かった?」
「孝太郎さんって、優しくて、すごいんだなって思いました!」
……。
その後僕たちは、カフェを出て、電車に乗って、少し歩いて俊介くんを家まで送って、俊介くんのパパと少しだけ挨拶をして、それから、また歩いて、家に帰った。
「湊。手、出して」
帰り道で、歩きながら、孝太郎さんはそう言った。僕が手を出すと、孝太郎さんはその手を握った。
「湊、ちょっと元気ない?」
孝太郎さんは、心配そうに僕の顔を覗いて言った。僕は、自分に元気がないのかどうかもよくわからなくて、「別に……」と言ってしまった。孝太郎さんは、優しく、「今日はハンバーグにしようか」と言って、また前を向いて歩き出した。孝太郎さんの手は暖かくて、僕は安心してしまった。今日のこと、全部、もういいとすら思ってしまった。
夜ご飯には、孝太郎さんが言った通り、ハンバーグが出された。孝太郎さんはテレビのチャンネルを回して、いつもみたいに「これが一番マシかな……」とか言って、なんだか真面目に社会問題の話とかをしている、静かな感じの番組をつけた。
食器の音と、テレビの中で、おじさんが話す声だけが聞こえる。お味噌汁をすすりながら、ぼんやりとテレビを眺めていた時だった。
「俊介くんって、賢い子だね」
孝太郎さんが言った。
「普通の子は、俺の話なんか理解できないと思うよ」
そう言って、孝太郎さんは、ハンバーグを口に入れた。
俺の話って、今日の、カフェでの話のこと? 孝太郎さんと僕のパパは男の人同士で恋人になってて、でもパパは結婚するために、孝太郎さんと別れて、ママと一緒になって、僕が生まれて、でもママもパパも死んじゃったから、孝太郎さんが僕を引き取ってっていう……。
ふーん。
その程度で賢いって言われるんだ。
「……」
いや、そんなこと思っちゃダメ。
僕は本当に、自分がひどい人間になった気がした。今日の、笑っている俊介くんの顔が浮かんで、純粋な俊介くんを汚してしまった感じがして、僕はただつらくなってしまった。孝太郎さんはお茶碗を持ったまま、テレビの方に目を向けている。僕は何も考えないようにしようと、心をぎゅっと閉じて、お味噌汁のワカメを飲み込んだ。黒いヘドロを飲み込んだみたいな感じがした。
「ねえ、湊。お風呂出た後に、一緒にサイエンスゼロ見ない?」
「……」
「録画しておいたんだ。湊と一緒に見たくて」
「……いいですよ」
断る意味もないかなと思った。
僕が先に入って、孝太郎さんもお風呂からあがると、二人で並んでソファに座って、テレビをつけた。孝太郎さんは僕にピッタリくっついて、僕の肩に手を回した。
俊介くんの前じゃ、あんなふうに、手を離したくせに。
「深海生物だって。面白そうだね」
今日はあんなに、俊介くんとベタベタしてたくせに。
「湊?」
「僕、本当は科学なんか興味ないです」
「……え?」
言っちゃった。しかも、八つ当たりするみたいに。
孝太郎さんの顔を見上げたら、孝太郎さんは、きょとんとした顔をしていた。まるで、僕の言っていることが、全然理解できないみたいに。テレビの音が、遠くに聞こえる。
僕は僕で、勢いで言ってしまったから、それ以上続けることは思いつかなくて、黙ってしまった。どうしよう、今まで言ってたことは嘘だったって、謝ればいい? でも、謝るのは、なんか変じゃない? けれど、実際、ずっと嘘をついていたのは僕の方なんだから、謝る以外にどうすればいいかなんて……。
どうしよう。
気まずくて、僕は目を逸らしてしまった。どうすればいいかわからなくて、僕が「いや、あの……」とかなんとか、もごもご言った時だった。孝太郎さんは「そっか」と言って、少しだけ僕を抱き寄せた。それから、言った。
「気づいてあげられなくて、ごめんね」
あまりにも優しい声だった。
なんで。
嘘をついてたのは僕の方なのに。なんで怒らないの。なんで孝太郎さんの方が謝るの。僕は、急に孝太郎さんが神様みたいに見えて、泣きそうになってしまった。
僕はやっぱ り、この人をがっかりさせたくないと思ってしまった。
僕はやっぱり、科学が好きだった気がしてきた。
「じゃあサイエンスゼロはやめにして、別のを……」
「大丈夫です」
「え?」
「深海生物、面白いです。科学も、全部が嫌いなわけじゃないです」
「……」
「見たいです」
「……そっか」
小さく笑ったような声だった。多分、今ので、僕は孝太郎さんをがっかりさせずに済んだ。僕は心の中で、ほっとため息をついた。孝太郎さんは、少しだけ録画を巻き戻して、僕たちが見損ねたところから再生を始めた。
エンディングが流れて、寝る時間が近くなっているのを見ると、孝太郎さんは僕を抱き寄せて、「今日はごめんね」と言った。
「え?」
意味がわからなくて、きょときょとしていると、孝太郎さんは、「今日は俊介くんばっかり構っちゃって、湊、寂しかったんじゃない?」と続けた。僕は「別にそんなこと……」と言ったけれど、確かに、今日はずっと、孝太郎さんと俊介くんばかりが喋っていて、それは僕にもよくわかっていた。孝太郎さんは、「俊介くんは他の家の子だからね。一番は湊だよ」と言って、僕の頭を撫でた。
「……」
僕は、何を思うのが正解なのか、わからなかった。