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黒猫のあしあと 9

「プリント届けるだけにしては、時間がかかったね」

「……道に迷っちゃったので」

「嘘、つかない方がいいよ」

「……ごめんなさい」

「何をしていたのかな?」

「……俊介くんと、お喋りしてました」

「どんなこと、お喋りしたの?」

「……」

「……」

「……」

「どんなことを、お喋りしたのかな?」

「……親友になろうって」

「親友になったんだ?」

「……たぶん」

「多分ってどういうことかな?」

「えっと……」

 孝太郎さんは、背筋をピンと伸ばして、片手にお茶碗を持ったまま、少しだけ口の端を上げて、じっと僕を見つめていた。僕がどれだけ目を逸らしても、孝太郎さんは絶対に目を逸らそうとしない。

 誰でもいいから助けてほしいと思ったけれど、助けてくれる人なんて、誰もいるわけがなかった。

「……たぶん、じゃないです。僕が俊介くんのこと好きだって言って、そしたら俊介くんが、親友になろうって言ってくれました」

「そうなんだ」

 孝太郎さんはじっとりした目のまま、ずっと、薄くにこにこしている。

 孝太郎さんは、いつも、僕に「小さな白い箱」を持たせている。それを持っていると、僕がどこにいるのか、いつでもわかるらしい。

 でもそれって、本当に場所だけなの?

 本当は、喋ってる内容まで、聞こえてるんじゃないの?

 僕は恥ずかしさで、じわりと体が熱くなってしまった。俊介くんとは話せて良かったけれど、でも、それが誰かに聞かれたと思うと、暴れたくなるくらい恥ずかしい。けれど、そう思ったすぐ後、僕の体はサッと冷たくなった。僕はちゃんと覚えていた。昔、僕が俊介くんと仲良くするのをやめた時に、孝太郎さんは嬉しそうな顔をしたっていうことを。

 やっぱり、俊介くんと、仲直りしない方がよかったのかな。

 でも俊介くんには、特別な友達だって言われちゃった。

 孝太郎さんはご飯を口に入れて、噛んでいる間も、僕から目線を外さなかった。

 僕は、おばあちゃんの家に行った時の、庭で、へびに出会ってしまった時のことを思い出した。

 僕の頭に、ピンと張り詰められた、ピアノ線の写真が思い浮かんだ。

「あの」

「うん?」

「俊介くんは親友……って……さっき言ったけど、やっぱり、普通の人から見たら、そんなに特別な友達じゃないかもしれないです……」

「うん」

「俊介くんとは、普通にいるだけです。僕が一番大事だと思ってるのは、孝太郎さんです」

 言っちゃった。

「そっか」

 孝太郎さんは柔らかい笑顔になった。僕の中のへびは、するするとどこかにいなくなって、ピンとなったピアノ線はゆるゆるとゆるんでいった。助かった、と思った。けれどすぐに、冷えピタを貼った俊介くんが、頭の中で笑いかけてきた。心臓がぎゅっと、冷たい手で掴まれたような心地がした。

 なんで、そんなこと、言っちゃったんだろう。

 僕は……。

「俺、俊介くんに会ってみたいな」

「え?」

 孝太郎さんは、お味噌汁のお茶碗を持ったまま、にこりと笑って言った。

「今度うちに遊びに来てもらいなよ」

「え……」

「友達なら普通だよ。ね?」

 孝太郎さんは、ほんの少しだけ、首を傾けた。

「……はい……そうですね」

 出てきたのは、妙にぼそぼそした声だった。孝太郎さんの言うことは、意外ではあるけれど、変なことじゃない。別におかしなことなんて何も言われていないのに、僕の頭は、まるで電柱にぶつかった後みたいに、ぽんやりしてしまった。それから、思った。

 いやかも。

 でも、何が嫌なのかはわからなかった。

 次の日、学校で、言うか言わないか少し迷って、結局、孝太郎さんが会いたいと言っていることを俊介くんに伝えた。俊介くんは少しも嫌な顔をしないで、「いいよー、俺も湊くんのパパに会ってみたい」と言った。僕が孝太郎さんは本当のパパじゃないことを伝えると、俊介くんはわかりやすく「しまった」という顔をして、それからしょんぼりとした顔で「ごめん」と言ってきた。僕は何も(本当に何も)思わなかったので、「大丈夫だよ」と言うと、俊介くんは「湊くんって大人だね」と言った。

 結局、その日、俊介くんに家に来てもらうことになった。

「こんにちは! 佐藤です!」

 玄関で、俊介くんは元気に挨拶した。孝太郎さんはにこにこした顔で「ようこそ、俊介くん」と言った。ちゃんと、和やかだった。僕は俊介くんが元気に、普通に挨拶したことに、ほっとした。孝太郎さんが、普通ににこにこしていることにほっとした。孝太郎さんがいきなり俊介くんにハグやキスをしないことに、ほっとした。

 俊介くんが靴を脱いでいる間、孝太郎さんはずっと、じっと俊介くんを見ていた。俊介くんは靴を脱いだ後に、しゃがんで靴を揃えた。孝太郎さんはそれを、表情を変えずにじっと見ていた。僕は俊介くんが靴を脱ぎっぱなしにしないことに、ほっとした。

 リビングに行くと、孝太郎さんはおやつを用意しにキッチンに行った。孝太郎さんがいなくなると、俊介くんは小声で「湊くんちきれいだね!」と言った。僕は少し誇らしくなった。しばらくすると、孝太郎さんがオレンジジュースとドーナッツを持ってきた。俊介くんは「ありがとうございます!」と元気にお礼を言った。それを聞いて孝太郎さんは、にっこり笑った。僕は、何も事件が起こらないことに、ほっとした。

 その後、孝太郎さんは仕事に戻っていった。

「湊くんちのオレンジジュース、俺んちのと違う!」

 俊介くんは一口飲むと、なぜか感動したように言った。

「なんかわかんないけど、違う!」

 そう言って俊介くんは、一気に飲み干してしまった。

「なんかこのドーナッツ、ツヤツヤしてるね」

 俊介くんはドーナッツの上側を指でつんつんして言った。

「パパが買ってくるやつよりおいしい!」

 俊介くんはドーナッツを一気に食べてしまった。

 それから俊介くんは、キョロキョロ周りを見回して、「湊くんち、いっぱい本あるね!」と言った。僕が「読んでもいいよ」と言うと、俊介くんは表紙が一番かっこいい生物学の本を取って、ページをペラペラめくり始めた。俊介くんは挿絵があるページでだけ、めくる手を少し止めた。それから、最後のページまでめくると、「難しい!」と言って本を閉じた。

 その後、俊介くんと、ニュートンのゆりかご(この名前は孝太郎さんから聞いた)を眺めていたら、孝太郎さんが来て、「何か困ったことはないかな?」と優しく言ってきた。俊介くんは「ないです!」とすぐに答えた。孝太郎さんは「それならよかった」と笑うと、それから、にこりとした顔のまま、悪魔みたいなことを言った。

「俊介くんは、もう湊の小説、読ませてもらったかな?」

 俊介くんは「小説?」と首を傾げている。僕は一気に背中が冷たくなって、カアっと顔が熱くなった。小説は、孝太郎さんに見せていたけれど、でも、でも、見せたのは孝太郎さんだけで、クラスメートになんて、ましてや俊介くんになんて、僕は、

「湊くん、小説書いてるんだ」

 俊介くんは小さく驚いたように言った。

 どうしよう、バレちゃった、バレちゃった。

「俊介くんも見せてもらうといいよ。湊の小説、面白いんだ」

 そう言うと孝太郎さんは、僕に「俊介くんに見せてもいいかな?」と、覗き込むように体を傾けて言った。待って、そんなの、心の準備が、

「俺には見せてくれたのに?」

 孝太郎さんは続けてそう言って、笑いながら眉毛を下げた。ちらりと俊介くんを見ると、少しだけキョトリとした様子で、僕が喋るのを待つように、僕の方を見ている。孝太郎さんは、じっと目を離さないで僕を見てくる。僕が返事をするまで離さないというような、そんな感じ……。

「湊?」

「……いいですよ……俊介くんに見せます」

 言ってしまった。俊介くんは一瞬で「やった!」と顔を輝かせた。そうだよね、そうだよね、僕がいいよって言ったら、俊介くんはそういう反応をするよね。わかってたんだ。

 断った時に、がっかりさせてしまうということも。

 僕はリビングの本棚から創作ノートを持ってくると、「ここから本編だから」と言って、ノートを開いて渡した。「まだ途中だけど」と付け足すと、俊介くんは「全然いいよ!」と言った。孝太郎さんは「設定は見せてあげないんだ?」と言ったけれど、そこは、いくら孝太郎さんには見られてしまったからといって、絶対にダメだった。最終防衛線、というやつだった。僕は「設定なんて見てもつまらないですから」と言った。

 俊介くんは、ゆっくりとページをめくった。孝太郎さんが読むよりも、スピードはずっと遅くて、大人の孝太郎さんが速すぎたんだとはわかっていても、俊介くんの読むスピードは、なんだかじっくりと読まれているように思えて、ああ、早く、この地獄みたいな時間が終わってくれないかなと思って。

 俊介くんの顔を見ると、無表情で読んでいたかと思いきや、小さく目を見開いたり、口元がきゅっとなったり、ほんの少し眉毛が下がったり、かと思えば安心したように笑ったり、とにかく、忙しく、ころころと表情が変わって、僕は、ジェットコースターに乗っているような気分になった。孝太郎さんは、その様子を、少し遠くからずっと見ていた。

 僕は俊介くんの横で、俊介くんの手元を見ていた。何か、まずかった描写がないか、横でずっとチェックしていた。俊介くんの顔をチラチラ見ながら、もしまずい文章があれば、すぐに止めるつもりでいた。

 大丈夫。大丈夫。途中まではよかった。けれど、最後のページ、ほんの三行だけはみ出てしまった、短いページで、見た瞬間、サッと、首から上が冷たくなった。目に入ってきたのは、僕が勢いで書いた、黒猫が車に轢かれるシーンだった。

「ダメ!」

 僕はほとんど何も考えないで、ノートを俊介くんから奪った。でも、もう遅かった。俊介くんは、黙って、悲しそうな顔をした。もう、読んじゃった顔だった。

 湊くんって、こんな残酷なこと書くんだ。

 湊くんって、そういう人だったんだ。

 いくつもの言葉が、一瞬で頭の中に湧いてきた。心臓はバクバクして、握りしめたノートは、汗でシワシワになってしまった気がした。

「読んじゃだめだった……?」

 俊介くんは、悲しそうな顔で聞いてきた。僕は、「残酷なことが書いてあるから」だなんて、言えなくて、自分で自分をひどい人なんだって認めるのは、どうしてもできなくて、「いや、だめっていうか、その……」とかなんとか、うまく続けようとしたけれど、口が動かなくて。

 僕は犯罪者だ。

 黒猫を殺した、極悪な犯罪者。

 残忍な、異常者。

 それで、そんなことを、平気で書いてしまう、サイコパス。

 どうしよう、俊介くんに、怖いって思われちゃう。気持ち悪いって思われちゃう。僕は普通の生活じゃ、そんなことしないんだよって、俊介くんに言いたい。動物を殺すなんて残酷なこと、普通の生活で考えたことなんかないんだよって、言いたい。説明したい。わかってもらいたい。言わなきゃいけない。なのに、口はうまく動かなくて、言わなきゃいけないのに、僕は……。

 孝太郎さんは俊介くんに向かって、「作家さんっていうのは、難しいんだよ」と、優しく笑いかけた。すると俊介くんは、すぐに元気を取り戻して、「そっか!」と言った。それから、「小説書く人って、すごいんだね!」と言った。

「俺が考えてないようなこと、いっぱい考えてるんだ!」

 俊介くんは、屈託のない笑顔で言った。

 あれ?

 チラリと孝太郎さんを見ると、孝太郎さんは、穏やかな顔でこっちを見ている。

 もう一度俊介くんを見る。俊介くんの笑顔は、あまりにまっすぐだった。

 あれ……あれ……? もしかして、俊介くんは、黒猫が轢かれるシーンを、本当は、読んでなんか……いない……あれ……?

「湊くん、面白かったよ! 続きも読みたいな!」

 俊介くんは言った。それから、夕方になってしまったので、俊介くんは家に帰って行った。

「……」

 僕は棚にしまったノートを、しばらくぼうっと見ていた。

「俊介くん、いい子だね」

 夕飯を食べながら、孝太郎さんは言った。

「あんなに礼儀正しい子、珍しいよ」

 孝太郎さんは言った。

 これは、合格、ということでいいのかな。

 何に対する合格かは、わからないけれど。

「これからもいっぱい来てもらいなよ。俺も俊介くんのこと、いっぱい知りたいな」

 孝太郎さんはにこりと笑って言った。なんで、孝太郎さんが、知りたがるんだろう。

「今度一緒に、お出かけに連れていってあげようか? 三人で行ったら、楽しいよ」

「……」

 その夜、僕は少しだけ創作ノートを開いた。俊介くんに「続きを読みたい」と言われて、ちょっとだけ、書こうと思ってみたからだった。

 けれど、何も思い浮かばない。

 黒猫を殺したところから、どうすればいいのか、さっぱりわからない。

 僕は頭を抱えてしまった。机に突っ伏して、でもダメで、立ち上がって、部屋の中をうろうろ歩き回って、そのうちに、あることを思いついた。

「俊介くん……黒猫が生き返ったら、喜ぶかな」

 僕は魔法の力で、黒猫を生き返らせた。主人公は喜んだ。死んだ時は悲しまなかった主人公が、生き返った時には喜んだ。黒猫は、昔のように、主人公の隣にやってきた。黒猫は、昔と変わらないはずだった。変わらない姿で、横にいた、はずだった。

 なのに、黒猫は、車に轢かれる前とは、まったく違う生き物に見えた。

 不気味なゾンビが笑っているみたいに見えた。

 次の日の学校で、俊介くんに、孝太郎さんがお出かけに連れていってくれることを伝えたら、俊介くんはわかりやすく目をキラキラさせて言った。「え! 行きたい!」って。

「孝太郎さんって、俺のパパと違って、優しいし、かっこいいし!」

 俊介くんは、スーパーヒーローの話をするみたいに言った。

「別に孝太郎さんは……」

 みんながよくやるように、僕は謙遜のつもりで、何か否定しようと思ったけれど、孝太郎さんの悪口なんか少しも思いつかなくて、結局、黙ってしまった。



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