黒猫のあしあと 8
ある日、俊介くんが学校を休んだ。風邪を引いたとのことだった。僕は俊介くんが休んだと聞いて、不思議と、ひどく、ほっとした。そこで初めて、いつもドキドキしながら過ごしていたんだということに気がついた。
それを聞いたのは、完全に、偶然だった。
休み時間、男の子たちのグループは、いつもならその真ん中に俊介くんがいるのだけど、今日は当然、そこはからっぽになっていた。こんなのは珍しい。俊介くんがいないと男の子たちは何を話すんだろうと思って、なんの気もなく、聞き耳を立てた時だった。
「俊介くんって、俺たちのこと見下してるよな」
えっ。
聞こえてきたのは、そんな声だった。聞き間違いかとも思ったけど、聞き間違いとは思えないくらいに、僕の頭の中でその声が何回も響いた。
うそ、俊介くんが見下してるなんて、そんな、あんなに、優しい子なのに?
みんな、否定するかと思った。けれどその後に続いたのは、「わかる」「俺たちのことバカだと思ってるよね」「やっぱそうだよね」という言葉だった。男の子たちは、俊介くんの話になってから、さっきよりもずっと、盛り上がっていた。
うそ、うそ。
僕はわけがわからなくなった。目の前がぐるぐるして、本の文字が何も入ってこなくなってしまった。その後の授業でも、僕はさっきの男の子たちの話が忘れられなくて、先生の言うことが何も入ってこなくなってしまった。
「他の人と遊んでも面白くないから!」
ふと、俊介くんと遊んだ時に言われた言葉が思い浮かんだ。
「湊くんと話してると、大人と話してるって感じがして、楽しい!」
僕は心臓がドキドキしてきた。もしかしてあれって、本当に、本当だったのかな。他の子を見下してるっていうのも、本当なのかな。
僕だけが、見下されてないのかな。
僕だけが、特別なのかな。
もしかして俊介くんも、僕に……。
「きりーつ!」
ふいに、委員長の声が響いた。ハッとして、遅れて慌てて立ち上がって、「れい!」の声に合わせて頭を下げた。ぼーっとしている間に、授業が終わっていたらしい。
僕の頭はちょっとだけ冷静になって、そうしたら、急に恥ずかしくなってきた。僕だけが特別だなんて、そんなの、ありえないよ。だって、俊介くんは、あんなにみんなの人気者で、誰とも仲良くできて、いや、だけど、みんなは俊介くんに、見下されてるって思ってて、俊介くんは、みんなと話すのはつまんないって言ってて、それから、僕と話すのは楽しいって言ってくれて……。
……。
放課後、僕は先生に呼び出されて、俊介くんの家にプリントと宿題を届けてほしいと言われた。
僕が、届けていいの?
一瞬だけ嬉しくなったけれど、すぐにそれは、僕なんかがそんなことしていいのかなという気持ちに変わった。だって僕は、自分から俊介くんを避けてしまったのだし、しかも、俊介くんに変な気持ちを持っているんだから。それに加えて、今日、一瞬でも、(いや、本当はたくさん、)「俊介くんにとって僕は特別かもしれない」なんて、恥ずかしすぎることを考えてしまったのだから、気まずくなって、話せなくなってしまうかもしれないと思った。でも、僕が「俊介くんの家、知らないですけど……」と言うと、先生は住所と地図をプリントしてくれて、それから、「お前はしっかりしてるからな。他の奴らはふざけた奴ばっかりだから、お前にしか頼めないんだ」と、頭を撫でてきた。
そっか、僕じゃないと、ダメなんだ。
そんなこと言われたら、断るわけにはいかないじゃないか。
僕の心は、一気に「使命感」でいっぱいになった。僕は封筒を持って家に帰って、孝太郎さんのハグとキスを受けて、おやつを食べながら「この後、俊介くんにプリントを渡してきます」と言って、手提げバッグに封筒を入れて、もう一回家を出た。俊介くんの家は遠かった。学校から僕と俊介くんは反対方向に帰るのだから、当たり前だ。何回も迷いながら俊介くんの家を見つけて、ドキドキしながら、三回くらい深呼吸をして、インターホンを押した。
ピンポーン、と、冷たい音が響いた。心臓が暴れるのを必死に抑えようとしながら、息を吸って、吐いて、人が出てくるのを待った。
「俊介くんと同じクラスの葛西です。先生に頼まれて、俊介くんにプリントを渡しにきました」
僕は頭の中で何回も唱えた。大丈夫、ただプリントを渡せばいいだけなんだから。何も怖いことなんてないんだから。なのに、インターホンを押して待っている間、僕はずっと、地獄のカウントダウンをされているみたいに思えた。
このまま誰も出てこなければいいのに。
一瞬、そんなことを考えてしまって、ダメだよ! と、心の中でぶんぶん頭を振った。僕は深呼吸して、ドアを睨みつけるように、しっかり見た。
けれど、どれだけ待っても、一向に、誰も出てこない。
あれ、誰もいないのかな?
誰もいないなら、届けることはできないな。
ふーん。
それじゃあ、仕方ないな。
僕はほっと安心して、帰ろうとして、でも、やっぱり罪悪感みたいなものが湧いてきて、もう一回だけ押して、それでも出てこなかったら帰ろうと決めた。
ピンポーン。もう一回、冷たい音が響いた。あと三十秒待って出てこなかったら帰ろうと、そう決めた時だった。
ガチャリ、とドアが開いて、「はい」と、緊張したような子供の声が聞こえた。僕はその声を聞いて、ドキリと、体が固まってしまった。出てきたのは、今、一番会いたくなかった人、俊介くんだった。俊介くんは、赤い顔で、おでこに冷えピタを貼っていた。なのに目だけはいつものようにパッチリ開いていて、「湊くん……?」と驚いたような顔をしていた。
てっきり、親の人が出てくると思っていたのに!
僕は焦って、「あっ、しっ、俊介くん!」なんて、情けない声を出してしまった。俊介くんは少しだけ黙って僕を見て から、「なんでここに……?」と聞いてきた。僕がドキドキしながら、頑張って、落ち着いた声で、「プリント届けにきたんだ」と言うと、俊介くんはちょっとだけがっかりしたような顔をして、「そっか、ありがと」と言った。
長居なんかしないで、「じゃあね」と言って、帰ろうとした。だって僕は、プリントを渡すため「だけ」に来たんだから。けれど、どうしてか、僕の足は動かなかった。
動かそうとしているのに、そうしようとした途端、僕の頭の中を、いくつもの言葉が巡って、足が少しも動かなくなってしまった。
ねえ、俊介くんって、他の人のこと見下してるの?
僕のことは見下してないの?
いや、
それよりも、
避けてごめんね。僕は俊介くんを嫌いになったわけじゃないんだよ。僕は俊介くんと一緒にいて楽しかったんだよ。話しかけてくれて、本当に嬉しかったんだよ。でも僕は、俊介くんに変な気持ちを持っちゃったんだよ。でも僕は、最初は、本当に、俊介くんと純粋な友達として仲良くなりたかっただけなんだよ。
俊介くんはもう、僕のことを嫌いになっちゃったかな。もしかして、最初から僕のことを、変な子だと思っていたのかな。もしかして、最初から僕のことを、気持ち悪い子だと思っていたのかな。
俊介くんは、僕のことを許してくれるかな。
「……」
僕が動かなかったからか、 俊介くんも、動かなかった。僕は、言いたいことがいっぱいあったのに、全部、全部、口から出る寸前で、止まってしまった。何か言わなきゃいけないことはわかっているのに、もう、何を言えばいいのかわからなくて、声を出そうとしても、何も口から出てこなくて、どうにもならなくて、最後には、じわりと、目の奥の方が熱くなってしまった。
なんで泣くの!
拳をぎゅっと握って、なんとか耐えようとした。なのに、瞬きした時に、涙が流れてきてしまって、そこから止まらなくなってしまった。
最悪!
涙でにじんで、俊介くんの顔はよく見えない。けれど俊介くんは、焦ったように「ちょっと待ってて」と言って、家の中に走って行った。それからすぐに戻ってきて、ティッシュの箱を持ってきてくれた。
「これ使って……」
「……」
僕が目を拭いて、鼻をかんで、落ち着くと、俊介くんは「中、入る……?」と控えめに聞いてきた。僕は、あまりよく考えずに「うん」と頷いた。泣いたら、変な気持ちとか、気持ち悪いとか、もう全部、どうでもよくなっていた。何も、考える力がなくなってしまったかのようだった。
「今はママもパパもいないから……」
俊介くんは廊下を歩きながら言った。
ママとパパがいたら、まずいのかな。
僕って、本当は、ここにいちゃダメなのかな。
僕が「俊介くん、僕、やっぱり……」と言いかけたところで、俊介くんは、「親に見つかったら、風邪うつしちゃったらどうするのって、怒られるから」と言った。それで僕は、ちょっとだけ安心した。なんだ、風邪をうつされるくらいなら、どうってことないよ、って。
俊介くんは一回冷蔵庫に行って、コップにポカリをいれると、それを持って二階の部屋に行った。歩きながら俊介くんは、ボソリと、「妹も今は遊びに行ってるから」と言った。
部屋に入ると、俊介くんは、真ん中の丸い小さなテーブルにコップを置いて、「どうぞ」と言った。僕は正座して、「いただきます」と、コップに口をつけた。ちらりと見回すと、部屋の角には子供がよく使っているみたいな机があって、壁には、ポケモンのカレンダーとか、宇宙の写真のジグソーパズルとかが飾ってあった。ベッドの上の紺色の布団は、さっきまで寝ていたみたいに、ぐちゃぐちゃになっていた。
外で車が走る音と、僕がポカリを飲む音だけが響く。俊介くんは、黙って、じっと僕を見ていた。僕は、何か言わないといけないと思ったけれど、泣いたせいか、頭がぼーっとしてしまって、何も考えられなかった。
「あのさ、湊くん」
俊介くんは、何か決心したように言った。僕が「なに?」と言うと、俊介くんは、ちょっとだけ目をキョロリと泳がせてから、
「俺、何かしちゃったかな?」
と、ものすごく不安そうな顔で、聞いてきた。
「え?」
まったく意味がわからなくて、僕はキョトキョトしてしまった。だって、俊介くんは、本当に、何もしていな くて、ただ普通にしていただけなんだから。僕が「何もしてないよ?」と言うと、今度は俊介くんが泣きそうな顔になって、「だって、湊くん、俺のこと避けてたでしょ?」と言った。それでやっと理解した。
やっぱり、僕が避けたせいで、傷つけちゃってたんだ。
「ごめんね、本当にごめんね。俊介くんは何も悪くないんだ。僕が全部悪いんだ」
気がついたら僕の口からは、ごめんなさいが溢れていた。僕が謝り続けていると、「じゃあ何が悪いのか教えてよ」と言われてしまった。
「えっと……」
俊介くんは、逃がさないぞとでも言うように、僕の目をじっと見ていた。まっすぐな目。でもその目は、どうしてか、孝太郎さんに向けられる目よりも、怖くなかった。
覗き込むというより、「お願い」するような目。
その瞬間、「言わないとダメだ」と思った。
また、「使命感」でいっぱいになった。
僕は小さく息を吸って、言った。
「あのね、僕、俊介くんに変な気持ち、持っちゃったの」
「え……?」
俊介くんは、さっきまでとは全然違う顔になって、目をパチパチとさせた。そうだよね、それだけじゃ、意味わからないよね。僕は続けた。
「こうた……保護者の人に、男の人同士の、恋愛ものの映画見せられて、それで、僕、俊介くんとそういうことするところを考えちゃったんだ。それで、僕、俊介くんとは純粋な友達のつもりだったのに、もしかしたら、僕は俊介くんのことを、純粋な友達だと思ってなかったのかもしれないって思っちゃって、俊介くんとずっと一緒にいたら、その気持ちがバレちゃうかもしれないと思ったから、避けちゃったんだ」
「……」
「だから俊介くんは、何も悪くないんだ。全部、悪いのは僕なんだ」
「……」
俊介くんは、まだ驚いたように、目をパチパチさせていた。それから、「湊くんは、俺のことが好きってこと……?」と言った。
「友達として好きだよ。でも、この好きが、本当に友達としての好きなのか、わからなくなっちゃったんだ」
僕は誤解がないように、しっかり自分の気持ちを伝えた。俊介くんは、まだパチパチしている。僕が意を決して、
「俊介くんは、絶交したい……?」
と、聞くと、俊介くんは、
「したくない!」
と、急に大声になって言った。
そこから、二人とも黙ってしまって、部屋の中がしん、となった。
……気まずくなっちゃった。
なんとなく、逃げるように、僕はひたすら、カーペットの模様を目で追った。七週くらいしたところで、沈黙を破るように(これは最近覚えた表現)、俊介くんが口を開いた。
「俺、嬉しいかも……?」
「えっ」
今度は僕がパチパチしてしまった。
「だって、湊くんは俺のことが好きなんでしょ?」
「うん……」
「湊くんは、俺のこと、特別な人だと思ってるんでしょ?」
「……うん」
僕の顔はかあっと熱くなってしまった。そんな言い方されたら、まるで、本当に……。
でも俊介くんは、構わず続けた。
「俺もね、湊くんのことは、特別な友達だと思ってたんだ。湊くんと話してる時だけ、楽しかったから。だから、湊くんが俺のこと好きって言ってくれるの、嬉しいよ!」
俊介くんは、そう言って身を乗り出した。顔がちょっと近くなって、僕はまた恋愛映画のシーンを思い出してしまって、もっと恥ずかしくなってしまった。
「でも、僕、俊介くんに、変な気持ち……」
「俺は湊くんが変な気持ち持ってても全然いいよ!」
「えぇ……」
僕が困ってしまっていると、俊介くんは少しはにかむように笑って言った。
「ね、俺たち親友ってことでいいのかな」
それから、ちょっとだけ首を傾げて、僕の返事を待つように、じっと見てきた。
「いいよ……」
僕は何も考えられないまま、そう答えてしまった。すると俊介くんは、「やった!」と小さくガッツポーズをした。
この人、僕が言う「変な気持ち」のこと、ちゃんとわかってるのかな……。
……まあいっか。
僕は目の前の俊介くんが嬉しそうなことに、とにかく安心して、自然と、ゆるゆると緊張がほどけていった。
俊介くんとまた仲良くなれたことが嬉しくて、変な気持ちを気にする気持ちは、溶けてどこかへ行ってしまったかのようだった。
その後、俊介くんのパパが帰ってきちゃうからと、僕は五時になる前に家に帰った。帰り際に、俊介くんは「明日は絶対、学校行くからね!」と笑った。僕は「うん」と言って、手を振った。それから、帰り道の途中 で、「お大事にって言わなきゃダメだったな」と気がついて、ちょっと後悔した。
そういえば、俊介くんがみんなを見下してるって話、聞くの忘れちゃったな。
まあ、いっか。
門限には間に合って、家の中に入ると、孝太郎さんが夕飯の準備をしているところだった。今日はお刺身だった。
「おかえり、湊。今ちょっと手が離せなくて」
ハグとキスでしょ? いらないよ!
「大丈夫です、手、洗ってきます」
僕が洗面所に行こうとした時だった。
「……」
いつもなら「うん」とか何とか返事があるのに、この時は返事がなかった。妙に気になってしまって、振り返ると、孝太郎さんは、いつもよりじっとりした目で、僕を見ていた。
「……」
泥のような目。
僕は固まってしまった。そのまま見返していると、孝太郎さんはにこっと笑って、「手、洗ってきなよ」と言った。