黒猫のあしあと 7
「湊、来週の土曜日、水族館に行こうか」
僕がソファで本を読んでいると、孝太郎さんがコーヒーを飲みながらそう言ってきた。
そうか、もうそんな季節か。
孝太郎さんは、毎年十二月になると、僕を連れて水族館に行くのだった。本当の理由は知らないけれど、でも、前に、パパと孝太郎さんが水族館に行っている写真を見せられたから(しかも写真の中の服装は冬っぽかった)、きっとそれが関係しているのだと思う。別に僕だって、なんでもかんでも、パパと結びつけたいわけじゃないけど、でも、目玉焼きだって、ディスカバリーチャンネルだって、僕が小説を書いて喜んだのだって、全部、絶対、パパが理由じゃないか。
「いいですけど」
僕がそう言うと、孝太郎さんはにっこり笑った。
正直に言って、僕は水族館が苦手だった。水族館だけじゃなくて、動物園も、遊園地も苦手だった。ああいうところに行くと、うまく説明できないけれど、なんだか、背中がゾワゾワしてしまう。文化祭の出し物で、馬鹿みたいな服を着て、馬鹿みたいな踊りを踊って、馬鹿みたいな歌を歌っている時と、なんとなく同じような気分になる。要は、恥ずかしくなってしまう。
そういうわけで僕は水族館に行くのが嫌だったけれど、孝太郎さんはどうやら水族館を楽しみにしているようで、孝太郎さんは僕が水族館で楽しむことも楽しみにしているようで、だから、僕は水族館で楽しまなきゃならないのだった。
それで、次の土曜日、僕たちはいつものように、手を繋いで電車に乗って、水族館に行った。電車の中で、僕はずっと嫌だなあと思っていた。けれど、一年ぶりに行った水族館は、意外にも、ちょっとだけ面白かった。僕の感性が変わったのか、水族館 側が変わったのか、わからないけれど、僕はいわゆる「学術的興味」を刺激されたのだった。僕が水槽の横の解説を読みながら、ちらりと孝太郎さんを見ると、孝太郎さんは愛おしそうな顔でにこにこ笑いながら、僕を見ていた。僕が解説に目を戻して続きを読み始めると、今度はカシャリと音がして、音の方向を見ると、孝太郎さんが僕にスマホを向けていた。「読んでていいよ」とか言いながら。
イワシの大群の水槽に来ると、孝太郎さんは「一緒に写真を撮ろう」と言い始めた。うわ、来た。僕は孝太郎さんと二人で写真を撮るのが苦手だった。だってそういう時は、決まって、ほっぺたがくっつくくらいに抱き寄せられて、あんまり言いたくないけど、カップルみたいな写真を撮ることになるのだから。でもカップルみたいなんて言ったら、僕が意識しすぎているみたいで恥ずかしい。それに、そんなことを言っても、「家族ならこのくらい普通だよ」とかなんとか返されるのが目に見えている。それで、カップルみたいなんて考えている僕が、もっと恥ずかしくなる。
でも、それにしても、やっぱり近いよ。
お 昼に僕たちはポテトと唐揚げを食べた。それから、僕はクレープを買ってもらって、孝太郎さんはソフトクリームを買っていた。ベンチに座ると、孝太郎さんはスプーンに一口アイスをすくって、「湊、口開けてごらん」と言った。僕が「ありがとうございます」と言って、スプーンを手に取ろうとすると、孝太郎さんは「いいから」と言って、そのまま僕の口にアイスを突っ込んだ。アイスの味はよくわからなかった。
ねえ、これも、家族なら普通なのかな。
僕たちは最後にお土産コーナーに行った。ここでも、毎年買うものは決まっていた。箱のお菓子一つと、孝太郎さんとお揃いのキーホルダー。今年は、銀色の、シンプルなデザインのイルカのキーホルダーを買った。「湊にはこういう大人っぽいのが似合うよね」って。孝太郎さんは、こういう時だけ大人扱いしてくる。
帰りの電車でも手を繋いで、家に着くと、孝太郎さんは「作り置きだけどいいよね」と言って、夕飯の支度をし始めた。僕は部屋に戻って、引き出しの中にキーホルダーを入れた。引き出しの中には、もういくつものキーホルダーが入ってい る。イルカだったり、別の魚だったりはするけれど、どれも、金属でできたシンプルなデザインのものばかりだった。
そっか、僕って昔から、こういうデザインのものばっかり、買ってもらってたんだ。
なんとなく、僕と同じくらいの年代の男の子が、ペンギンのぬいぐるみを買ってもらっているところを思い出した。
自分のベッドでなんとなく横になっていると、ダイニングから「ご飯だよ」と声が聞こえてきた。のそのそと起き上がって行くと、ご飯と、味噌汁と、肉と野菜のよくわからない料理が並べられていた。僕が席につくと、孝太郎さんはテレビのチャンネルを回しながら、「これが一番マシかな……」と言ってリモコンを置いた。ひたすら街頭インタビューをして、それをクイズにするタイプの、よくある番組だった。
別に、僕だって、いつもなら気にならなかったのだと思う。けれど、今日は、タイミングが最悪だった。テレビのコーナー の中の一つに、カップル特集が出てきて、僕は、今日の孝太郎さんを思い出してしまった。疲れていたからかな、僕はつい、言ってしまった。
「孝太郎さんと僕のパパって、恋人だったんですよね」
孝太郎さんは少し驚いたような顔をして、けれどすぐに、にこりと笑って「うん、昔の話だけどね」と言った。
「孝太郎さんって、僕にパパみたいになって欲しいんですよね」
僕の口は止まらなかった。孝太郎さんはにこにこしたまま、少し黙って、「湊にはそう見えたかな?」と言った。
「孝太郎さんって、僕に恋人みたいになって欲しいんですか」
言ってしまった。
孝太郎さんはスッと表情を消して、けれどすぐに、微笑むような感じで笑って、「湊はそうしたいのかな?」と言ってきた。
したくないよ。
そう言いたくなったけれど、そう言うのはなんだか、孝太郎さんに悪い気がした。
せっかく、いつも優しくしてくれている孝太郎さんを、嫌いって言うみたいで。
僕は困ってしまって、何も言えなくなってしまった。黙って下を見ていると、孝太郎さんは「そう思ってもらえるのは嬉しいけどね、子供と大人は恋人にはなれないんだよ」と、静かに言った。
「わかってますよ!」
そう言って、僕はバッと顔を上げた。それで、僕は、固まってしまった。その時に見えた、孝太郎さんの顔は、今までに見たどんな顔とも違った。
まるで、ずっと流れ星にお願いしてきたことが、やっと叶ったみたいな。
全身の毛が逆立つみたいに、ゾワっとした。
心の底から、言わなきゃよかったと後悔した。
その後、孝太郎さんは、何事もなかったように、いつもみたいにご飯を食べながら、テレビにコメントし続けていた。僕は何も言えなかった。夕飯を食べ終えてから、僕はお風呂に入って、今日はリビングに行かないで、そのまま自分の部屋に向かった。ベッドの上で横になりながら、さっきの恐ろしい出来事を何度も思い出していた。
怖い。
気持ち悪い。
さっきの孝太郎さんの顔が、頭から離れない。怖い。気持ち悪い。そんなこと、思っちゃいけないのに。
そのうちに、僕はいい考えを思いついた。小説を書けば、全部忘れられるんじゃないかって、そう思った。
僕は走ってリビングに行って、孝太郎さんの顔を見ないように気をつけて、本棚から創作ノートを取ると、走って自分の部屋に戻った。ノートを開いて、本編を読み返す。黒猫は変わらず、主人公と一緒に、仲良く遊んでいた。恋人なんかじゃなくて、ただ普通の友達として。
僕はほっとした。そうだよ、これが、普通の……。
「普通の友達にしては、ちょっと重いかも」
突然、頭の中で、孝太郎さんの声が割り込んできた。
その瞬間、頭の中の黒猫の姿が、ぐにゃりと歪んだ。
気がついたら僕は、黒猫を殺していた。車に轢かれて、元の姿なんて少しも残っていないっていうふうにして。主人公は、黒猫が死んだことに対して、何も悲しまなかった。
日曜日、僕は元気が出なくて、ずっとベッドで横になっていた。心配した孝太郎さんが、部屋に入ってきた。僕のおでこに手を当てて、「熱はなさそうだね」と言った。孝太郎さんが「何か食べたいものはあるかな?」と聞いてきたので、僕は「何も食べたくないです」と言った。
僕は、わけもなく泣きたい気分で、暖房がついているはずなのに、寒くて、凍えそうで、孝太郎さんが部屋を出ようとした時に、一人になりたくないと思って、行かないでほしいと思って、思わず、「待ってください」と言っていた。
「ん?」
孝太郎さんは、柔らかく笑って振り返った。孝太郎さんと、目が合った。
孝太郎さんは、僕と恋人みたいになりたいと思っている。
大人だから、我慢しているだけ。
それなら、僕が甘えれば、きっと喜ぶ。
気がついたら僕は、孝太郎さんに手を伸ばして、「ぎゅってしてほしいです」と言っていた。なんかもう、全部、どうでもよかった。孝太郎さんは「いいよ」と優しく言って、抱きしめてくれた。このざわざわした気持ちを静かにしてくれるなら、誰でもよかった。誰でもよかったというか、孝太郎さん以外にそんなことしてくれる人はいないから、孝太郎さんに頼るしかなかったのだけど。昨日の怖さなんて、もうどこかへ行ってしまっていた。もう、全部、どうでもよかった。
その次の日は普通に学校に行った。
みんな、普通に笑っている。普通におしゃべりしている。普通の顔をしている。
このクラスの中に、パパと恋人みたいなことをしている人は、どのくらいいるのだろう。
俊介くんは、どうなんだろう。
チャイムが鳴って、担任の先生が入ってきた。いつものように朝礼の時間が始まった。
この先生も、自分の子供に、恋人みたいになってほしいと思ってるのかな。
この先生も、自分の子供に、恋人みたいなことをしてるのかな。
お昼ご飯の後の長い休み時間、男の子も女の子も、俊介くんも、外へ遊びに行ってしまって、教室には僕と他に何人かの生徒たちだけになった。先生は僕の席に来て、「湊」と声をかけてきた。
「他の奴らには内緒だけどな、今回の算数のテストも、お前だけ百点だったぞ」
そう言って、僕の頭をワシワシ撫でた。それから、「あっ、今の時代はセクハラになるか!」と慌てて手を引っ込めて、ガハハと笑った。
別に、それ以上のこと、いつも孝太郎さんにやられてますけど。
「先生、頭を撫でるのって、セクハラになるんですか?」
気づいたら僕はそう聞いていた。すると先生は、「うーん」と頭をかしげて、少し考えてから、
「そうだな……今は世の中がちょっと敏感になってるからなあ……」
と言った。
そっか、こういうのって、世の中の気持ちで決まるんだ。
「親がそういうことするのもセクハ ラなんですか?」
次に僕がそう聞くと、先生はもう一度「うーん」と首をかしげて、少し考えてから、
「親がするのは、セクハラじゃないんじゃないか……?」
と言った。それから、
「愛情表現として普通だと思うぞ」
と言った。
普通なんだ。
それから僕は、
「じゃあ先生は、自分の子供にそういうことするんですか?」
と聞いた。すると先生は「うちのは嫌がるからなあ」と、頭をかきながら言った。それから、先生は「それじゃ、先生、これから用事があるから」と、僕の席を離れて、何かの書類をまとめて、教室を出ていった。なんとなく逃げるように見えたのは、気のせいに思えなかった。
そっか、嫌がるんだ。
なぜか、僕には、先生の子供が、どこか輝いて見えた。顔も背丈もわからないけれど、その男の子は、僕の頭の中で、しっかりと二本の足で立って、全身から、強い光を放っていた。
自分でも、どうしてそんなイメージが湧いたのか、わからないけれど。
家に帰ると、孝太郎さんは珍しくミーティング中だった。図書館に行くつもりだったけれど、勝手に出ていったら怒られるかなあと思って、僕は孝太郎さんのミーティングが終わるのを待っていた。十分くらい待っていると、孝太郎さんが慌てた様子で出てきて、「おかえり、湊」と笑った。それからいつものように、ハグをキスをしてきた。
これも、普通の愛情表現なのかな。でも土曜日の孝太郎さんは、僕が恋人みたいになって欲しいんですかと言った時に、あんな顔をしていて……。
「どうしたの、湊。ぼんやりしてるね」
ぼんやりしていたらしい。
「もしかして土曜日の夜のこと、気にしてるのかな?」
そうだけど。
「でもね、大人と子供は恋人にはなれないんだ」
知ってるよ。なりたくもないよ。
孝太郎さんも、僕とは恋人になれないってわかってて、安心したよ。
でも、本当は、なりたいんでしょう?
「湊にもきっと、いつか好きな人ができるんだろうね」
孝太郎さんは、少しだけ寂しそうに言った。ああ、ちゃんと、そういうこともわかってるんだ。僕はちょっとだけ安心したのと同時に、少しだけ、胸がチクリとした。どうしてチクリとしたのかは、わからなかった。