黒猫のあしあと 6
僕が俊介くんと話さなくなってから、なんとなく、孝太郎さんの様子が変わった。変わったと言っても、本当に、ちょっとだけだけど。
まず、笑顔が増えた。前からずっとにこにこしてる人だったけど、今はもっとにこにこするようになった。「どういう友達と付き合うかは、ちゃんと考えなきゃダメだよ」なんて言ってきたくらいだから、きっと孝太郎さんは、俊介くんと遊ぶことを良いことだと思っていなかったんだろう。孝太郎さんくらいの優秀な人がそう思うっていうことは、僕が俊介くんから離れたのは、正解だったのかもしれない。
次に、放課後の僕への質問が変わった。昔は「今日はどうするのかな?」という質問の後に、決まって「友達とは遊ばないのかな?」と聞いてきた。ちょっと前は「あの子とは遊ばないのかな?」と聞いてきた。今はもう、そんなことは聞いてこなくなった。その質問自体がなくなった。「今日はどうするのかな?」と聞いてくるだけ。これはどうしてなのか、わからなかった。
そんなところかな。
今日もいつも通り、誰とも喋らずに学校を終えて、帰ってきて、おやつを食べてから図書館に行って、普通に帰ってきた。この日の夕食で、孝太郎さんは「君のパパは、子供の頃、友達がいなくて孤立してたんだよ」と言ってきた。それから、「でも大人になってからは、研究者として立派に活躍して、立派な人たちと一緒になったんだよ」と言った。
だから?
僕は反射的にそう思ってしまって、でもすぐに、これは孝太郎さんが孝太郎さんなりに慰めてくれているのだとわかったから、僕は「そうなんですか」とだけ言った。孝太郎さんはにっこりしたまま頷いて、それから、「孤独は創造性を生むんだよ。孤独な時間っていうのは大事な時間なんだ」と言った。
じゃあなんで孝太郎さんは、孤独にならないんですか?
僕は反射的にそう思ってしまって、こんなに意地の悪い言葉が浮かんだことに、びっくりした。それからすぐに、自分が心の底から嫌になった。いつの間に僕は、こんなに性格が悪くなってしまったんだろう。孝太郎さんは、僕を慰めようとしてくれているだけなのに。
僕は本当に、自分がダメな人間になってしまったのだと思った。
好きなはずのお肉を食べても、なんだかゴムを噛んでいるようだった。
「ところで、湊」
顔を上げると、孝太郎さんは優しく笑って、続けた。
「魔法使いの小説は、もう書かないのかな?」
……なんで、書いてないの知ってるんだろう。
「俺、たまにノート読んでるのに、全然進んでないから」
ああ、そういうことか。
「俺ね、湊の小説、結構楽しみにしてるんだよ」
「下手ですけど」
「下手じゃないよ。小学生であそこまで書けるのはすごいよ」
「小学生にしては、ってことですよね。やっぱり下手ってことなんじゃないですか」
「なに、湊は大人のプロの人と比べてるの?」
孝太郎さんはそう言うと、目を細めておかしそうに笑った。
「とにかく、俺は書いてくれると嬉しいんだけどな。もしかして、もう飽きちゃった?」
飽きるわけない!
僕は頭がカッと熱くなった。飽きるわけがないよ。僕が書かなくなったのは、飽きたなんて、そんな理由じゃなくて、もっと、もっと……ダメだ。言葉にできない。
「飽きてないですけど……」
「じゃあお願いするよ、湊先生?」
そう言うと孝太郎さんは、ちょっと試すように、小さく笑いながら僕を見た。
ふと、楽しく書いていた頃のことを思い出して、胸のあたりがムズムズしてきた。
「……」
久々に、書いてみてもいいかもしれない。
お風呂上がりに、僕は秘密のノート(今はもう「秘密」じゃなくなっちゃったから、普通に「創作ノート」と言った方がいいのかもしれない)を開いてみた。開いてみたと言っても、最初は見るのが怖くて、目をものすごく細めて、ちょっとずつ、ちょっとずつ、文字を読むようにしていった。けれど、一旦目に入ってしまえば、もう何も怖くなくて、それどころか逆に、なんだ、結構面白いこと書いてるじゃないかと、関心なんかしちゃったりしていた。
何ページかめくったところで、主人公の魔法使いの、友達の黒猫が出てきた。
主人公の、たった一匹の友達。
その瞬間、なぜか、俊介くんの、黒いぱやぱやの髪が思い浮かんだ。それから、なぜか、目の奥が、じわ、と熱くなった。
え。
ダメだよ。
なんで泣きそうになってるの。
離れていったのは僕の方なのに。
僕は顔にぐっと力を入れて、俊介くんのことを忘れようとした。けれど、読み進めれば読み進めるほどに、黒猫と主人公は仲良くなっていって、一緒にお昼寝したり、一緒に魔法を見せあったり、一緒にクッキーを食べたり、一緒にボールを蹴って遊んだり、一緒に歌を歌ったり、一緒に空飛ぶ箒に乗って街を眺めたり、一緒に海の向こうに行こうって、約束したり……。
そうしたら急に、離れてしまった僕と俊介くんが悲しく思えてきて。気がついたらノートは、涙でにじんでしまっていた。
そこからもう、止まらなかった。
どれだけ泣くのをやめようとしても、全然、体が言うことを聞かなかった。何かが壊れてしまったみたいに、涙も鼻水も止まらなかった。
お風呂から出てきた孝太郎さんは、僕を見てぎょっとした顔をして、それからすぐに、どうしたのと駆け寄ってきた。でも泣 いてる理由なんて絶対に言えるわけがないから、僕はただ孝太郎さんの前で黙って泣くことしかできなかった。孝太郎さんは僕を優しく抱きしめてくれて、それがあんまりにも温かくて、涙はもっと止まらなくなってしまった。
「今日は一緒に寝ようか」
孝太郎さんは僕の手を優しく引いて、自分の部屋のベッドに寝かせてくれた。
「俺ももう寝ようかな」
そんなことを言って、孝太郎さんは一緒にベッドに入ってきて、僕を片手で抱きしめてくれた。僕の涙はまだ止まらなくて、孝太郎さんの服をぐしょぐしょにしてしまった。孝太郎さんは何も言わないで、ただ僕の背中をさすってくれた。
気がつくと朝になっていて、孝太郎さんはもういなくて、僕は、あのまま寝てしまったのだと理解した。洗面台の鏡を見ると、僕の目は真っ赤になっていて、なんというか、すごくひどかった。この感じで学校に行くのは嫌だなあと思って、でもすぐに、そういえば今日は土曜日だったっけと思い出して、ほっとした。
ダイニングに行くと、孝太郎さんが目玉焼きを作って待っていた。孝太郎さんは「おはよう、湊」なんて言って、昨日のことなんかなかったみたいに、いつも通りの笑顔を見せてきた。僕はどう言えばいいかわからなくて、ただ「おはようございます」とだけ返した。遅れて、今日も目玉焼きを食べなければならないのかと、げんなりした気持ちがやってきた。でもすぐに、昨日あんなに優しくしてくれた人がせっかく作ってくれたものに対して、そんなことを思ってはいけないと思い直した。
二人で席につくと、孝太郎さんは一番に、「俺は何があっても湊の味方だからね」と言った。
うわ、絶対、昨日のことだ。
僕は一気に恥ずかしくな って、恥ずかしさを隠すために「昨日はすみませんでした!」と強く言って、その言い方が普通に意味わからなくて、逆にもっと恥ずかしくなってしまった。
孝太郎さんはふふ、と笑って、「俺は理由は聞かないよ」と言った。
聞かないんだ。
多分、それは孝太郎さんの優しさなのだろうけど、僕は、理由を聞いてくれた方がよかった。別に、理由を言いたいわけじゃない。そうじゃなくて、孝太郎さんが理由を聞いてくれないと、本当は孝太郎さんは僕が泣いた理由を知ってるんじゃないかって、不安になるから。全部知ってるから聞く必要がないだけなんじゃないかって、疑ってしまうから、いっそのこと聞いてくれた方がよかった。
実際、孝太郎さんは、不思議そうな顔なんか少しもしない。
本当に、孝太郎さんは、全部知っているんじゃないのだろうか。
僕は遠回しに聞いてみようと思った。それで、「孝太郎さんは、僕の小説に出てきた黒猫って、普通の友達だと思いますか?」と言った。言ってから、自分で自分の質問の意味がわからなくなって、言わなきゃよかったと後悔した。いそいで「やっぱりなんでもないです」と言ったけれど、孝太郎さんは、「なんで? 面白い質問だよ」と首を傾げて、「そうだね、普通の友達……ではないかな」と答えた。それから、付け足した。
「普通の友達にしては、ちょっと重いかも」
うそ。
僕は一瞬で、サッと血の気が引いていった感じがした。背中が冷たくなった感じがした。重いって、まさか、そんな、僕が普通に書いていた「友情」が、普通の人から見たら、「普通の友情」じゃなかったなんて。
もしかしたら、僕が俊介くんに持っていたのも、最初から「普通の友情」じゃなかったのかな。僕は無意識に、俊介くんに「重い感情」を持ってしまっていたのかな。俊介くんはずっと、僕のことを「普通じゃない」と思っていたのかな。僕は俊介くんに何を言ったか、どんな振る舞いをしたか、思い出して点検してみようと思ったけれど、うまく思い出せなかった。
もしかして僕、自分でもわかってないまま、俊介くんに、とんでもないことを言っちゃってたのかな。
「特別な友達って感じで、素敵だと思ったけどね」
孝太郎さんはそう言ったけれど、「特別な友達」という言葉が、全然、いい言葉には聞こえなかった。
その後、僕がぼんやりと動画(これは孝太郎さんに見せられた科学番組。ぼんやりなんて言ったけど、内心、頭の中はずっとぐるぐるしていた)を見ていたら、掃 除を終えた孝太郎さんが隣に座ってきて、「俺も一緒に見たいな」と僕の肩を抱いた。
不思議だな。俊介くんには、触ってすらないのにあんなにも不安になって、孝太郎さんには、こんなにべったりされているのに、不安に思うどころか、安心するなんて。
やっぱり、僕は俊介くんが好きってことなのかな。そういう意味で。
「ああ、この分野は、湊のパパがやってたことに結構近いね」
孝太郎さんは、隣でそんなことを言っている。それから顔をこっちに向けて、「湊は面白いと思う?」と聞いてきた。僕が「面白いと思います。特にこの実験が、こんな発想があるんだって、意外で……」と言うと、孝太郎さんは「そっか」と満足げに笑った。最近僕は、理由付きで「面白かった」と言うと、普通に「面白かった」と言うよりも孝太郎さんが喜ぶことを知った。
「湊は将来、どんな職業に就きたい?」
孝太郎さんは、そんなことを聞いてきた。この質問をされるのは初めてじゃない。ちらりと孝太郎さんの顔を見上げると、孝太郎さんはまっすぐに僕の目を見ていた。
まっすぐな目。見ているだけで、息苦しくなるような目。
ああ、これは……。
僕はいつものように感じ取った。孝太郎さんは、ある一つの答え以外は望んでいない。
僕は答えた。
「科学者になりたいです」
「どんな?」
「生物の研究がしたいです」
「そっか」
そう言うと孝太郎さんは、僕の肩を抱く手に力を込めて、ぎゅっと僕の体を引き寄せた。
「湊はやっぱり透の子供だね」
その声は溶けちゃいそうなくらい甘かった。よかった、今回も僕は、正解の答えを言えた。
ほっとして、僕は孝太郎さんの体にくたりと寄りかかってしまった。温かい腕に包まれるのが心地よくて、不思議と、僕のぐるぐるはふわりと解けていった。見上げると、孝太郎さんは愛おしいものを見るように、目を細めていた。よかった、喜んでもらえている。
僕は本当は科学には興味がなかったけれど、孝太郎さんの目があんまりにも優しくて、昨日だって泣いているところを、自分の服が汚れるのも気にしないで、抱きしめてくれたし、こんな優しい人の期待を裏切ることは、絶対にしたくないと思った。実際、僕は勉強ができるから、興味のない科学の仕事も、普通にこなせるんじゃないかと思った。
「俺は湊がどんな進路を選んでも、応援するけどね」
でも、科学者になった方が、嬉しいんでしょ?
「僕は科学者になりますよ」
孝太郎さんは「ふぅん」と言いながら、にこにこと笑っていた。
昼ごはんを食べた後、僕はなんとなく気が向いて、小説の続きを書き進めてみた。久しぶりにノートの前で鉛筆を持つと、どんどんアイデアが湧いてきて、結局、孝太郎さんに「夕飯だよ」と呼ばれるまで、ずっと書いていた。夕飯を食べながら、孝太郎さんは「今日は何していたのかな?」と聞いてきて(本当は知ってるくせに)、僕は「小説を書いてました」と正直に答えた。それから、「よければ、読みますか?」と言った。だって最初に読みたいと言ったのは、孝太郎さんの方なんだから。予想通り、孝太郎さんは「読んでいいの?」と嬉しそうに笑った。僕が何も言わなくたって、勝手に読むくせに。
お風呂上がりに孝太郎さんは、早速、ソファで僕の小説を読み始めた。僕はそれを、ドキドキしながら横から見ていた。孝太郎さんは読み終えると、まず一番に、「新しい部分も面白かったよ」と言って、それから、良かったところをいくつも挙げてくれた。
それから、言った。
「今回はノア くんの出番が少なかったね」
ドキリと、心臓が跳ね上がった。
ノア。主人公の友達の黒猫。
「そうですか……?」
僕はちょっとだけしらばっくれてみた。けれど、本当は、僕もそれはわかっていた。ノアのことを書こうとすると、手がうまく動かなくなってしまうのだった。手が動かなくなってしまう理由もわかっていた。でもそれは、絶対に言いたくなかったから、僕は「気のせいじゃないですか」と言った。
次の日もテレビを見たり小説を書いたりして、普通に過ごして、その次の日は、普通に学校に行った。俊介くんはいつも通り、クラスのみんなに囲まれて笑っていた。俊介くんはいつも通り、普通にしていた。