黒猫のあしあと 5
「湊、どういう友達と付き合うかは、ちゃんと考えなきゃダメだよ」
朝ごはんを食べている時、孝太郎さんは、突然そう言ってきた。いつも通り、穏やかな笑顔だった。
僕が「え?」と言うと、孝太郎さんは「湊ならわかってると思うけどね」と言って、食器を片付けに立ち上がってしまった。
え……。
俊介くんの名前は出されていない。俊介くんの話をしているわけじゃない。ただ「どんな友達と付き合うか考えて」と言われただけ。なのに、なぜか、僕の頭には俊介くんの顔が浮かんで、それから、俊介くんと遊ぶことが、とんでもなく悪いことに思えてきた。
俊介くんという人が、悪い人に思えてきた。
学校に行くと、俊介くんが先に来ていて、僕を見るなり「湊くん!」と駆け寄ってきた。
昨日みたいな明るい顔。
こんなに明るくて優しい子が、悪い人なわけがない。僕は「俊介くん」と、名前を呼び返した。
「昨日、大丈夫だった?」
俊介くんは不安げに聞いてきた。僕はちょっとだけ考えて、門限には間に合ったからなあと思って、「大丈夫だったよ」と言った。すると俊介くんはほっとしたように眉毛を下げて、「よかった」と笑った。それから、「今日も一緒に遊ばない?」と言ってきた。「湊くんの門限のこと、俺も気をつけるから」とも。
俊介くんはにこりと笑った。それで、嬉しすぎて、僕の心臓は、キュッとなってしまった。けれどすぐに、今朝の孝太郎さんの言葉が思い浮かんだ。
「どういう友達と付き合うかは、ちゃんと考えなきゃダメだよ」
頭の中で、孝太郎さんの声が響く。そうだ、僕は、俊介くんと遊んでいいのか、ちゃんと考えなくちゃいけない。考えなくちゃ……。
心臓がぎゅっと潰れそうな心地がした。
「湊くん?」
「……」
「……湊くん?」
僕はハッとして、顔を上げた。俊介くんは心配そうな顔で僕を見ていた。
「僕も遊びたい!」
気がついたら、そう言っていた。
遊びたいって、言っちゃった。ちゃんと考えてないのに。
俊介くんはパッと笑って、「じゃあ今日は何する?」と聞いてきた。僕は笑顔を作りながら「またサッカーしたいな」と言った。けれど、やっぱり何か、騙している感じがして、胃のあたりが、ずしりと重くなった。僕は、自分でもわからないまま、泣きたい気持ちになった。
俊介くんはこんなに明るくて優しい子なのに、僕は、俊介くんを疑わなくちゃいけない。孝太郎さんには気をつけてって言われたのに、僕はよく考えないまま、俊介くんと遊ぼうとしている。ああ、もう、わけわからないよ。
僕、どうすればいいんだろう。
家に帰ると、いつものように孝太郎さんが出てきて、ハグとキスをした。孝太郎さんはおやつを出そうとしたけれど、僕は「また出かけなくちゃいけないので、今日はおやつはいらないです」と言った。それから今度は、「友達と遊ぶので、〇〇公園に行きます」と、ちゃんと行き先も伝えた。
孝太郎さんはスッと表情を消して、それから、「今日はケーキを用意してたんだけどな」と、寂しそうに笑った。
ケーキ……。
心臓がチクリとした。ケーキを食べられないことに対してじゃない。せっかくケーキを用意してくれた孝太郎さんの 優しさを、ゴミ箱に捨ててしまうみたいな感じがしたから。孝太郎さんは、「湊が好きなチョコケーキを選んだんだけどね」と言った。
どうしよう。
僕は小さくパニックになってしまって、気がついたら「食べてから行きます」と言っていた。そう言うと孝太郎さんはにっこり笑って、「そっか」と、冷蔵庫に向かった。
僕の頭に、一人でリフティングをしている俊介くんが思い浮かんだ。それから、猛烈な後悔が湧いてきた。どうしよう、俊介くんを待たせてしまう。俊介くんを嫌な気持ちにさせてしまう。俊介くんは、優しいから、少し遅れるだけなら許してくれる気がする。でも、ケーキなんか食べ始めてしまったら、少しの遅れじゃ済まない気がする。俊介くんは、一人で、僕のことを待つんだろう。俊介くんは、僕を待ちながら「あれ?」と思って、あまりにも遅いから今日はもう来ないのだと思って、僕が約束を破ったのだと思って、怒ってしまうのだろう。それか、もしかしたら、悲しんでしまうかもしれない。僕にとっては、怒ってくれる方がずっといい。悲しませてしまう方が、ずっと嫌だ。あの明るく て元気な優しい子が悲しむところを想像すると、僕の心臓は潰れてしまいそうだった。
孝太郎さんはケーキと牛乳を出すと、僕の向かいに座って、いつものようににこにこしながら頬杖をついた。いつものように、僕がおやつを食べる様子をじっくりと見ている。孝太郎さんは、ふと「今日は食べるのがはやいね。もっと味わわなくていいのかな?」と言った。僕は友達を待たせているから……と言おうとしたけれど、そんなことを言ったら、ケーキより友達の方が大事なのかなと言われてしまいそうで、何も言えなかった。
「ねえ、その友達って、昨日言ってた子?」
孝太郎さんは、穏やかに笑いながら、そう聞いてきた。僕が「はい」と答えると、孝太郎さんは、
「その子のこと好き?」
と聞い てきた。
「え……?」
その瞬間、僕はじわ、と顔が熱くなってしまった。好きって、好きだなんて、そんな言い方、まるで、僕が、俊介くんに恋してるみたいじゃないか。
俊介くんはただの友達なのに。なのに、孝太郎さんにそう聞かれた瞬間、俊介くんの姿がぐにゃぐにゃと歪んで、急に、触ってはいけないようなものに思えてきてしまった。あれ? さっきまで、僕は俊介くんのことを、普通の友達だとしか思っていなかったよね? そうだよね?
「友達として、好きです」
僕は強調するように言った。けれど、強調するように言ったせいで、かえって意識しているような感じになってしまった。孝太郎さんは「ふぅん」と言いながら笑うだけだった。僕は、言ってから、後悔した。よく考えれ ば、好きなんて言葉は、友達にも、ペットにも、家族にも、普通に使う言葉じゃないか。それなのに、あんな言い方をしたら、それじゃあ、僕が本当に俊介くんに恋をしていて、それを必死に否定しているみたいじゃないか。
それからの孝太郎さんは、何も言わず、僕をにこにこしながら見ているだけだった。結局、ケーキを食べ終えて、牛乳を飲み切るまでに、十五分もかかってしまった。僕は全速力で走って、公園に向かった。ケーキと牛乳が胃のなかで暴れて、吐きそうになった。
公園に行くと、俊介くんは昨日のように、一人でリフティングをしていた。僕を見つけてこっちを見る俊介くんは、学校で見たよりも少し暗く見えた。
「遅くなってごめん」
僕は謝った。謝って許してもらえるとも思わなかったけれど、他にどうすればいいかもわからなくて、ただ謝るしかできなかった。
俊介くんは「別に、そんなに待ってないよ」と言ったけれど、僕にはその顔が、怒っている……いや、失望している? ようにしか見えなかった。僕はもう一回「ごめん」と言った。俊介くんは、
「本当にそんなに待ってないって」
と言って、歯を見せた。けれど僕は、気を使わせてしまっているのだと一瞬で悟った。僕は思いついた。遅れてしまったなら、その理由をちゃんと説明しなくちゃいけない。
僕はちゃんと、理由を言おうとした。けれど、
「本当はもっと早く来ようと思ってたけど、孝太郎さ……保護者の人に……」
と、そこまで言いかけて、気がついた。ケーキを食べていて遅れましたなん て、遅れた理由として、最悪じゃないか。ダメだよ、こんな理由、言うわけにはいかない。急いで別の理由を考えようとした。頭をフル回転させた。けれど思いつくのは、おばあさんを助けていたとか、途中で転んじゃったとか、全部、嘘っぽくて、変なやつばかり。なのに、他の理由なんて、どれだけ考えても思い浮かばなくて、結局は「ごめん」としか言えなかった。
しん、と、沈黙が、流れた。
泣きたい。すごく、泣きたい。
でも、泣いちゃダメだ。
「……」
いや、ダメ、泣いちゃいそう。
じわりと、目の前の景色が歪んだ、 その時だった。
「家庭の事情ってやつだよね?」
突然、俊介くんが口を開いた。
「え……」
「その保護者の人になんか言われたんでしょ? だったら仕方ないよ。それに、俺、本当に待ってないんだ。友達と遊ぶってなったら、このくらい普通でしょ?」
「そうなの……?」
「そうだよ。だから、早くサッカーしよ? 早くしないと夕方になっちゃうよ」
そう言って俊介くん は、「ね?」と笑った。
今度こそ、僕は、本当に泣きそうになってしまった。僕は、俊介くんが、天使みたいに見えた。でも泣くのを我慢して、「うん」と言った。
「その子のこと好き?」
急に、孝太郎さんの言葉が思い浮かんだ。
僕は思った。
好きだよ。でもそれは、友達としてだよ。
でも目の前の俊介くんを見ていたら、本当に友達として好きなのか、自信がなくなってきてしまった。だって僕には、こんなに仲良くしてくれた友達が今までいなくて、本当の「友情」というものがわからなかったから。もしかしたら友情ってい うのは、もっとドライなもので、天使みたいって思ったり、泣きそうになったりなんかしないものなのかもしれない。
だとしたら、僕は、俊介くんと、もっと距離を取らないといけないのかな。
もっと好きになるなんてことがないように、気をつけなきゃいけないのかな。
わからないよ。
家に帰ると、テーブルにはハンバーグが並べられていて、孝太郎さんは椅子に座ってスマホを眺めていた。「ただいま」と言うと、孝太郎さんは顔を上げて、穏やかな顔で「おかえり、湊」と言った。
その後は普通に二人でご飯を食べて(なんとなく、俊介くんの質問をされるのが多かった気がする)、お風呂に入って、二人でテレビを見ることになった。二人でテレビを見るのはいつものことだけど、今日 はなぜか、ディスカバリーチャンネルじゃなくて、映画を見ることになった。しかも、それは、男の人同士が恋愛をする映画だった。
恋愛ものの映画を見せられるのは、初めてのことだった。
しかも、男の人同士が恋愛するものなんて。
「湊、男の子同士で恋愛をするのは、何も変なことじゃないんだよ。男の子を好きになる人を馬鹿にしたり気持ち悪がったりする人もいるけど、それにはホモフォビアっていう名前がついていてね……」
孝太郎さんは、何やら横で解説し始めた。孝太郎さんの話は理解できるし、大切なことなのもわかっていた。けれど、でもそれは、今はどうでもよかった。どうでもよかったというより、聞くことができなかった。
僕の頭の中には、俊介くんのことが浮かんで しまって、それどころじゃなかった。
違う。俊介くんはそういうんじゃない。俊介くんは、純粋な友達なんだ。
でもそれは僕がそう思い込んでいるだけで、本当は、僕は、俊介くんに、そういう気持ちを向けているのかな。
僕は、俊介くんの、「純粋な友達としての気持ち」を、裏切ろうとしているのかな。
いやだ。それはダメ。耐えられない。
僕は必死で、頭の中の俊介くんを追い払おうとした。けれど、そうすればするほどに、俊介くんは頭の中に居座ってしまって、僕の中で、ずっと、にっこりと笑っていた。
違うよ、俊介 くんはそういうのじゃないのに。
突然、孝太郎さんにぐっと肩を引き寄せられた。僕はいつの間にか、ずっと下を向いていたようで、引き寄せられたその瞬間に、一気に、テレビの画面が視界いっぱいに入ってきた。男の人たちが、キスしているところだった。
瞬間、俊介くんとキスするところが浮かんでしまった。
あ。
体が、サッと冷たくなっていった。かと思ったら、急に熱くなっていった。もうわけがわからない。違うよ、俊介くんはそういうんじゃないのに。俊介くんは、初めてできた、純粋な友達なのに。最悪な気分だった。頭がおかしくなりそうだった。
いつの間にか映画は終わっていて、孝太郎さんは「面白かったね」と話しかけてきた。それから、僕の反応が薄いのを見てか、 「湊には難しかったかな?」と言ってきた。
知らないよ。わからないよ。難しいとか、難しくないとか、そんな、もう、わからないよ!
孝太郎さんは、「映画、意外と長かったね。もう寝ようか」と言って、僕の手を引いて寝室に向かった。僕の頭は、ずっとぐるぐるしていた。
俊介くんは、友達なのに。
次の日の学校では、なんとなく気まずくて、つい俊介くんのことを避けてしまった。俊介くんが僕に向かって近づいてきたのを見て、僕はトイレに行くふりをして、サッと席から離れてしまった。一瞬だけ見えた俊介くんの表情は、いつものような明るい顔をしているだけで、僕が避けたことすら理解していないようだった。
給食の後の長い休み時間、僕が一人で本を読んでいると、「湊く ん」と、頭の上から声が降ってきた。それは聞き馴染みのある俊介くんのもので、僕は思わず、ガタ! と大きな音を立てて、椅子ごと飛び上がってしまった。
「俊介くん……?」
「あは、びっくりしすぎ」
俊介くんは明るい笑顔(最近知った言葉だと「屈託のない笑顔」と言うんだろう)で言った。それから俊介くんは、近くの椅子に座って、「今日タイミングが合わなくて、なかなか話しかけられなかったから」と言った。
違うよ、タイミングが合わなかったんじゃなくて、僕が避けたんだよ。
僕の胸はチクリと痛んだ。でも、避けてる理由なんて、死んでも言えなくて、僕はごまかすように、えへへと笑うことしかできなかった。
「ね、湊くん、今日も遊ばない?」
俊介くんは、ちょっとだけ首を傾げて言った。
あ、まずい。
その仕草で、僕は、昨日映画で見た、主人公の相手の男の人が「甘える」シーンを思い出してしまった。俊介くんって、前からこんな仕草をするような人だったっけ。そうだった気もするし、そうじゃなかった気もする。でも、とにかく、絶対、俊介くんに、そんなつもりはないことだけは確か。恋愛映画を思い出してしまう、僕の方が異常なんだ。
僕は必死になって、昨日の映画のシーンを頭から追い出して、なんて言うかを考えた。「遊ばない?」って言われたのは、すごく嬉しい。けれど同時に、遊んでしまったら、僕はもっと俊介くんに「変な気持ち」を持ってしまって、その「変な気持ち」がバレてしまうんじゃないかと思った。それだけは、絶対にダメ だった。俊介くんは優しい子だから、僕の変な気持ちを知っても、気持ち悪いなんて言わないかもしれない。でもそんなことはどうでもよくて、とにかく、知られちゃうのがダメなんだ。
「ごめん……今日は用事があって……」
僕は絞り出すような感じで、俊介くんに言った。俊介くんはわかりやすくしょんぼりした顔をして、でも、すぐに、「そっか、じゃあしょうがないね」と小さく笑った。
心臓にナイフが刺さったみたいだった。他の誰でもない、僕が、俊介くんにそんな顔をさせてしまった。こんなの、お仕置きよりもつらい。
僕はつい、「明日なら遊べるから」と言いそうになった。けれど、すんでのところでぐっと抑えた。今日がダメで、明日なら大丈夫な理由なんかないんだから。
それからも何日か、俊介くんは遊びに誘い続けてくれた。けれどその度に、僕は用事があるからと言って断った。僕が断るたびに、俊介くんは寂しそうに笑いながら「そっか」と言って、僕は「ごめんね」と泣きたい気持ちになった。そのうちに、俊介くんが話しかけてくる頻度は減っていって、一ヶ月経ったあたりで、ついに俊介くんは僕に話しかけてこなくなった。