黒猫のあしあと 4
十月の頭に、ちょっとしたイベントがあった。僕たちのクラスに、なんと、転校生が来た。男の子で、真っ黒なぱやぱやの柔らかそうな髪と、きゅっと吊り上がった大きくて丸い目と、小さい口が、なんだか特徴的な子だった。僕が書いた魔法使いの、友達の黒猫のことが頭に浮かんだ。けれどギュッと目を閉じて、すぐにそれを頭から追い払った。
その子は俊介くんという名前だった。俊介くんは元気な子で、みんなの前で、「サッカークラブに入ってます! みんなと仲良くしたいです! よろしくお願いします!」と、カラッとした明るい声で、にっこり笑いながら言った。にっこりと言っても、その笑顔は、孝太郎さんの見せるにっこりとは全然違っていた。
俊介くんは本当にクラス全員と仲良くするつもりみたいで、教室で一人、本を読んでいた僕にも話しかけてきた。さっきまで、クラスのみんなに囲まれていたくせに。僕が「みんなのところに行かなくていいの?」と聞くと、「湊くんと話したら行くよ」と笑った。
俊介くんは僕に「どんな本が好きなの?」と聞いてきた。ファンタジー、という言葉が一瞬浮かんだけど、やめた。代わりに、「探偵が出てくるやつが好きかな」と言った。俊介くんが「シャーロック・ホームズとか?」と言ったので、僕が「そんな感じ」と答えると、俊介くんは「俺読んだことないんだよね、おすすめ教えてよ」と言った。僕は、どんなタイトルがあったっけと思い出しながら、いくつか名前を挙げた。すると俊介くんは、「オッケー読んでみる!」と言いながら、みんなの中に去っていった。
俊介くんは、次の日も話しかけてきた。授業と授業の間の短い休み時間に、僕が本を読んでいると、僕の机に寄ってきて、「教えてくれた本、読んだよ!」と、昨日のような明るい声で言ってきた。僕が「読むの早いね」と言うと、俊介くんは「うん、意外と読めた」と笑った。それから俊介くんは、「ママが本よめ本よめって、いつもうるさくてさ!」と言った。その言い方に、僕はちょっとムッとしたけれど、でもその後に「でも湊くんが教えてくれたやつは面白かった! またおすすめ教えてよ!」と言われて、そこからムッとした気持ちは、しょぼしょぼとしぼんでいってしまった。
俊介くんは、 給食の後の長い休み時間には、みんなと外でサッカーをしているようだった。サッカークラブに入っているからか、校庭で走り回る俊介くんは一人だけ動きが違くて、なんだか面白かった。長い休み時間に俊介くんが話しかけてくることはなかったけれど、それでも、必ず一日のどこかでは、僕に話しかけてきて、本の話をした。
けれど、俊介くんがクラスに来てから二週間くらい経ったある日、俊介くんは突然、僕に向かって「一緒に帰ろうよ」と言ってきた。あまりにも予想外で、僕が「えっ?」と固まっていると、俊介くんはしおしおとしょんぼりした顔になって「ダメだった?」と言った。
ダメなわけない!
僕は急いで首を振って、「ダメじゃないよ! 一緒に帰ろう!」と言った。そう言うと俊介くんは、わかりやすくパッと顔を明るくして、「やった!」と言った。結局、校門を出てすぐ、僕と俊介くんは帰り道が反対方向なのがわかって、二人でしょんぼりすることになったのだけど、俊介くんはそれでも諦めないで、「じゃあこの後一緒に遊ぼうよ!」と言ってきた。僕はなんだか嬉しくて、何も考えず 「うん」と言って、学校近くの公園でまた二人で集まることに決めた。
家に帰ると、いつものように孝太郎さんが出てきて、ハグとキスをしてきた。それからいつものように、おやつを出そうとしてきたけれど、僕は俊介くんと早く遊びたくて仕方がなかったから、おやつはいらないですと言った。その時は、あんまりにも俊介くんと遊ぶのが楽しみだったからか、不思議と、おやつを断ることに、なんの罪悪感も湧いてこなかった。孝太郎さんは小さく「え……?」と言って目を丸くしていたけど、僕はきっぱり、「今からもう一回出かけてきます!」と言って、孝太郎さんの返事なんか待たないで、ランドセルを自分の部屋に投げて、外に飛び出していった。
公園に行くと、俊介くんは先に着いていて、一人でリフティングをしていた。俊介くんは僕に気づくと、「湊くん!」と手を振った。
僕が「リフティング上手だね」と言うと、俊介くんは「サッカーやってるからね」となんでもないように言った。その「なんでもないように言う感じ」が、僕にはなんだかかっこよく見えた。
僕は、俊介くんがサッカーボールを持ってきたということは、当然、サッカーをするということなんだろうと思った。でも、俊介くんは、僕なんかが相手で楽しいんだろうか。だって、俊介くんは、僕なんかと違って、クラブで本格的にサッカーをやっている人なのに。僕は急に申し訳ない気持ちになってきて、謝るように、「体育の授業でしかサッカーやったことないから、上手にできないかもしれないけど……」と言った。けれど、なのに、俊介くんは小さく驚いた顔をして、「え、今日サッカーやるの?」なんて言ってきた。
僕はまったく意味がわからなくて、「サッカーやらないの?」と返した。それから、だって俊介くんはサッカーやってる人だし、俊介くんがサッカーボール持ってきたってことは、それで遊ぼうってことだよね、みたいなことを一気に言った。俊介くんは僕の言うことを最後まで聞くと、何か納得したみたいに「ああ!」と言って、それから、「俺がサッカーボール持ってきたのは、湊くんが来るまでの暇つぶし用だよ。湊くんとは、湊くんがやりたいことを、やりたいな」と言って、にっと笑った。それから小さく、「湊くんがサッカーやりたいなら、全然付き合うけど」とも付け足した。
僕は驚いてしまった。「僕がやりたいこと」を聞かれたことなんか、これまでの人生で、一回もなかったから。それから、僕は困り果ててしまった。「僕がやりたいこと」を聞かれたことなんか、これまでの人生で、一回もなかったから。
俊介くんは、何か期待するような目で、「湊くんは何やりたい?」と聞いてきた。僕は焦りながら、頭をフル回転させた。俊介くんの言い方からして、多分、俊介くんは僕とサッカーをしたいわけじゃない。それから、こういう質問に「なんでもいいよ」って答えるのはダメだっていうのも、聞いたことがある。控えめに、「俊介くんはどうしたい?」と聞いてみたけれど、元気よく「俺はなんでもいいよ!」と、一瞬で言い返されてしまった。多分、俊介くんは、本当に優しさで、僕に聞いている。
僕は頭を振り絞った。振り絞ったけれど、何も思い浮かばなかった。あまりにも思い浮かばなくて、これは多分正解じゃないんだろうなと思いながら、結局、「僕、サッカーうまくなりたいから、俊介くんに教えて欲しいな」と言ってしまった。それでも俊介くんは、少しも嫌な顔をしないで「いいよ!」と言ってくれた。
その後、俊介くんは僕にボールの蹴り方を教えてくれたけど、いざパスをやり始めたら、それが思いの外楽しくて、結局、暗くなるまで、ずっとそれだけをやっていた。俊介くんは「なんだよ、上手じゃん」なんて言ってくれて、お世辞だとわかっていても、嬉しくて、心臓がキュッとなって、ウキウキしてしまった。
パスをしながら、俊介くんとは色々な話をした。サッカークラブの話とか、俊介くんの妹の話とか、家で何してるかとか、色々。俊介くんとなら、なんでも話せる気になった。調子に乗って、魔法使いのお話のことも言いそうになったけれど、それだけは、口から出る直前で、危なくストップがかかった。
後になって思うと、常識的に考えて、そんなことは聞くべきじゃなかったけれど、その時の僕は楽しくなっていたから、つい、あんまりよくない質問をしてしまった。「なんで僕なの?」って。俊介くんは首を傾げていたから、僕は続けて、「僕より他の人と遊んだ方が楽しいんじゃないのかな? 僕って暗いよ?」と言った。これは本当に、拗ねた気持ちなんて少しもなくて、ただ純粋に、本当に、気になったから聞いただけだった。
その時の僕には、困らせちゃうかな、なんて考えは、少しも浮かばなかった。実際、俊介くんは困った様子なんか少しも見せなかったから、多分、別によかったんだと思う。俊介くんは少しだけ「うーん」と斜め上を見てから、カラッとした明るい声で、「他の人と遊んでも面白くないから!」と言った。
え!
正直すぎて、僕は面食らった。信じられない。そんなことを明るく言える人が、この世にいるなんて。僕がポカンとしていると、俊介くんは、「湊くんと話してると、大人と話してるって感じがして、楽しい!」と笑った。僕が「どういうこと?」と聞くと、「よくわかんないけど、なんか他のみんなは、子供って感じがする! くだらないことしか言わなくて、つまんない!」と、はっきり、不満げに言った。それから、「そういう湊くんは、俺と遊んででつまんなくない?」と、今度は少し不安げな顔になって、聞いてきた。
つまんないわけないよ!
すっごく楽しいよ!
だって、俊介くんは、初めて仲良くしてくれた子だから!
なんて言葉が、一瞬で、わっと頭に浮かんだ。けれど、そんなことを言ったら、「仲良くしてくれた子だから」俊介くんのことが好きだと言ってるみたいで、それは俊介くんに対して悪いことだと思ったし、それに、本当に、僕はそれだけじゃない気がしたから、僕はただ「つまんなくないよ」とだけ言った。
そのうちに空が暗くなってきて、公園の時計を見ると、五時半を過ぎていることに気がついた。
うそ、もうこんな時間!
僕の心臓はギュン、と跳ね上がってしまった。慌てて俊介くんに「帰らなきゃ」と言うと、俊介くんは無邪気な顔で「門限厳しいの?」と聞いてきた。なんでそんな顔で聞くのと思いつつ、僕が「うん、お仕置きされちゃう」と答えると、俊介くんはぐっと声を低くして「お仕置き……?」と、眉毛の間にシワを寄せた。
ん? とは思ったけれど、でも、その時はもうそれどころではなかったから、僕は「また明日、学校で!」とだけ言って、俊介くんのちょっと困ったような「うん、また明日」という声を背中で聞いて、全力で家までダッシュした。
家には六時ギリギリ前に着いた。僕が息を切らせながら「ただいま」と言っても、返事はなかった。
そろそろと家の中に入ると、料理はもうテーブルに並べられていて、椅子に孝太郎さんが座っていた。口元は笑っているけれど、目は全然笑っていない。孝太郎さんはボソリと、「おかえり、湊」と言った。
僕は一瞬で理解した。
やってしまった。
僕は孝太郎さんが怒っていることを理解した。
けれど、どうすればいいか、わからない。
とりあえず僕は手を洗って、孝太郎さんの向かいに座ると、すぐに「ごめんなさい」と言った。けれど孝太郎さんは、
「何に対する、ごめんなさいかな?」
と、笑顔を崩さないまま言った。
僕は困ってしまって、少しパニックになりながら、「今日、孝太郎さんを無視し てしまったこと……」と、自分でもよくわからないで言った。けれど孝太郎さんは、
「無視はされてないよ」
と、笑顔を崩さないまま言った。
僕はもっと困ってしまって、もうわけがわからなくなりながら、「じゃあ、おやつを食べなかったこと……?」と、なぜか質問するような調子になりながら言った。けれど孝太郎さんは、
「ちょっと寂しかったけど、怒るほどのことじゃないよ」
と、笑顔を崩さないまま言った。
でも、全然目は笑っていない。
僕は本当にもうどうすればいいかわからなくなってしまって、涙目になりながら、もう一回、「ごめんなさい」と言った。苦しくて、つい下を向いてしまった。孝太郎さんの顔が見られなかった。しばらくそうしていると、孝太郎さんは優しく、「湊、手出して」と言った。わけがわからないまま、顔を上げて、テーブルの上に手を伸ばすと、孝太郎さんはその手をそっと握って、「出かける時は、どこに行くか、教えて欲しかったな」と、小さく笑いながら言った。
ああそうか、そう言えばよかったんだ。
わっと後悔の気持ちが湧いてきたけれど、もう遅かった。孝太郎さんは、優しい笑顔のまま、「俺、湊のこと、本当に心配したんだよ」と言って、それから、もう二度とそんなことをしないようにと、これからお仕置きをされることが決まった。
「冷めちゃうから、食べよう?」
孝太郎さんはにっこり笑うと、テレビをつけて、いつものように、テレビに向かってコメントし始めた。
ご飯を食べて、お風呂に入って、お仕置きが終わると、孝太郎さんは、涙でぐしょぐしょになった僕の顔を優しく拭いてくれた。いつもなら終わるとすぐに部屋に帰してくれるのだけど、この日は違った。
「今日はどこに行っていたのかな?」
ベッドの上でぐったりしている僕の肩に手を置いて、孝太郎さんは穏やかに聞いてきた。
「友達と……遊んでました」
僕はぐったりしながらも、正直に答えた。嘘をつく理由はないと思った。
孝太郎さんはすごく驚いたように、大袈裟に眉を上げて、「へえ」と言った。それから、
「どんな子なのかな?」
と、聞いてきた。
僕はぼんやりする頭で、なんとか考えて、でも一言でまとまらなくて、「元気な子」とだけ答えた。それでも孝太郎さんは放してくれなくて、「他には?」と聞いてきた。
僕はできるだけたくさん答えた。
明るい子。サッカーが得意な子。ぱやぱやした髪の毛の子。ぱっちりした目の子。口がちっちゃい子。みんなと仲良くできる子。僕がおすすめした本を読んでくれる子。カレーが好きな子。ゲームが好きな子。お母さんとお父さんと妹がいる子。お母さんはデザイナーをやっている子。お父さんは会社員をやっている子。妹は二個下の子。 お父さんの仕事の都合で引っ越してきた子。家ではよく妹と喧嘩してる子。親との仲はいい子。〇〇地区に住んでる子。〇〇県から引っ越してきた子。〇〇県に住んでたこともある子。同じクラスの子。佐藤俊介くんって名前の子。
「その子のお父さんとお母さんの会社はわかるかな?」
それはさすがに、わからなかった。
「その子と遊んで、楽しかった?」
もちろん、楽しかった。
けれど、ここで楽しかったと言ったら、何かが壊れてしまう気がした。
僕は、
「そこそこ」
と、答えた。孝太郎さんは、それを聞いて、満足げに笑った。