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黒猫のあしあと 3

 僕は学校ではほとんど喋らない。普通に、友達がいないから。でも先生には心配されていない。先生は個性を大切にする人で、僕が休み時間も一人で本を読んでいても、そういうのが好きな子だと思われているだけだから。それに先生は頭の良い子が好きだから、むしろ、僕が本を読んでいるのは、頭の良さの証明みたいになっていて、嬉しいことなんだろう。僕は本を読むことと頭の良さは関係ないと思っているけれど。

 先生は三十代の男の人で、いつもジャージを着ていて、男の子の子供がいた。体育を教えるのが得意で、たいていの生徒に対しては、昔の漫画に出てくる先生みたいに、厳しいことを言う人だった。でも僕だけには優しかった。休み時間、人の少なくなった教室で、「うちの子も、お前みたいに、勉強ができるようになれればいいんだけどなあ!」とか言って、乱暴に頭を撫でるのが癖だった。それから、「あ! 今の時代はセクハラになるのか!」とか言って、慌てて手を引っ込めるのも癖だった。「お前は塾に行ってるのか」と聞かれて、僕が「行ってないです」と言って、「大したもんだなあ!」と言われるのも、よくあることだった。この先生は、壊れたテープみたいに、同じことしか言わないのかと思った。だけど、自分だけが特別扱いされているみたいで、悪い気分にはならなかった。

 でも僕はちゃんとわかっている。この先生は、僕が勉強できなくなったら、きっと僕を見放すんだろう。この先生は、僕が好きなんじゃなくて、勉強ができる子供が好きなだけなんだから。だから僕は、あんまりこの先生を好きにならないように、気をつけなきゃならなかった。

 この前、三者面談があった。スーツを着た孝太郎さんが放課後に学校に来て、教室で、僕と先生と孝太郎さんの三人で話したんだった。面談の間、先生と孝太郎さんはずっとにこにこしていた。二人とも、僕がいかにいい子であるかを楽しそうに話していた。先生は、「湊くんはいつもテストで百点をとるんですよ」と自慢げに話した。それから先生は、孝太郎さんがアメリカのものすごく有名なIT企業で働いていることを知って、「湊くんはこんなに立派な方のもとで育てられて、幸せ者ですねえ!」と言った。

 あの時の先生の顔といったら……。

「あ……」

 ぼんやりしていたら、いつの間にか、教室の中は僕一人になっていた。男の子も女の子も、みんな、サッカーかドッジボールをしに校庭に出てしまったみたいだった。先生もいない。

 僕はそっと教室の扉を開けて、廊下を見回した。誰もいなかった。

 ……チャンスだ。

 僕は急いで席に戻ると、カバンから秘密のノートを出した。ページの中には、まだ書き途中の、魔法使いの物語が書いてあった。ひとりぼっちの魔法使いと、小さな黒猫のお話。僕が、自分で書いたお話。ちょっと読み返すだけで、僕の頭の中には、昔テレビで見たイギリスの街みたいな、魔法の世界が、パッと広がっていった。物語は、主人公の魔法使いが、黒猫に話しかけているところで止まっている。主人公は黒猫に、「海の向こうの世界に行くのが夢なんだ」と言っていた。僕も、早く主人公を海の向こうの世界に連れていってあげたいけれど、その前に、色々と書かなくちゃいけないことがあるから、我慢してその「色々なこと」を書いていた。例えば、海の向こうに行く時に、主人公のお父さんの目をどうやってごまかすか、作戦を立てたり、とか。

 書けば書くほど新しいアイデアが湧いてきて、僕の手は止まらなかった。頭がふわふわして、どこかに飛んでいってしまったみたいだった。手が痛くなってくるのもお構いなしに、僕はとにかく書き続けた。

 なのに、夢中になって書いていたら、突然、勢いよくドアが開けられて、僕は飛び上がってしまった。クラスの男の子たちが、帰ってきたのだった。僕は飛び上がったところを見られなかったか、ドキドキしたけれど、男の子たちは特に何も気にしていなさそうだった。僕は急いでノートをしまって、代わりに文庫本を出した。それから、僕は最初から本を読んでいただけですけど、という顔をして、適当なページを開いて眺めた。

 自分でお話を書いているなんて、恥ずかしくて、絶対に知られるわけにはいかない。

 なんで恥ずかしいのかはわからなかった。作家の人は、同じようにお話を書いて、しかもそれをみんなに見せていて、僕はその人たちをすごいと思っているのに、自分でやると、とんでもなく恥ずかしいことをしているように思えてしまうのだった。だからクラスの人にも隠しているし、先生にも隠しているし、このことだけは、孝太郎さんにも隠している。

 これだけは、誰かに知られたら、人生が終わってしまう。

 僕は楽しくなっていたところで中断されて、ものすごく、ものすごく残念な気持ちになった。けれど、それでも、誰かに見られるよりは全然マシだった。みんな、僕に興味がないとわかっている。でも万が一、本当に万が一だけど、誰かが僕のノートをうっかり覗いてしまうかもしれないと思ったら、とてもじゃないけど、誰かがいるところでお話を書くなんてことはできなかった。僕がお話を書けるのは、誰もいない時の教室と図書館だけ。家の中は、どこにカメラが置いてあるかわからないから、絶対に無理だった。(孝太郎さんは「防犯のため」と言って、家の中にカメラを置いている。)そんなわけだから、僕がお話を書ける時間というのは、本当にレアなものだった。

 そのせいか、久しぶりにお話が書けて、その後の授業では、魔法使いのことが頭から離れなくて、先生の言うことが少しも入ってこなかった。授業が終わって、下校している間中も、ずっと魔法使いのことが頭から離れなかった。家に着いても、魔法使いのことが頭から離れなかった。

 ふわふわした頭のままドアを開けると、いつものように孝太郎さんが出てきて、僕を抱きしめてきた。「おかえり、湊」と言って、ほっぺにキスもしてきた。その間も、魔法使いはずっと頭の中にいた。それが、よくなかったのかもしれない。孝太郎さんは、僕の肩に手を置くと、顔をじっと見て、「今日は楽しそうだね」と言った。どこか責めるような、勘繰るような感じがして、僕は「え?」と言いかけたけれど、それに被せるように、孝太郎さんは聞いてきた。

「何か、隠しているのかな?」

 あ。

 一瞬で魔法使いのことなんか吹き飛んで、カッと体が熱くなった。

 孝太郎さんは、じっと、僕の目を覗き込むように見ている。口では笑っているけれど、目は全然笑っていなくて、犯人を問い詰める警察の人みたいに、まっすぐに僕を見ている。僕はどうしてか、自分が悪いことをしているような気持ちになった。僕の口から、つい、ごめんなさいという言葉が、出そうになった。だけど、ごめんなさいなんて言ったら、僕がお話を書いていることも言わなければならないとわかったから、ぐっと飲み込んだ。お話を書いていることだけは、いくら孝太郎さんでも、言うわけにはいかなかった。

 僕は精一杯、普通の顔をして、「何も隠してないです」と言った。声は震えていて、自分で言いながら、嘘をつくのが下手すぎると思った。こんなのじゃ、絶対に信じてもらえない。僕は泣きたい気分になった。けれど孝太郎さんは、僕をじっと見るだけで、何も言わない。

 もう何分も、何十分も、何時間も経ってしまったかのように思えた。もう、本当のことを言ってしまおうかと思った。けれど、ついに、ごめんなさいという言葉が口から出かけたところで、孝太郎さんは突然にこりと笑って、「湊がそう言うなら、そういうことにしておこうか」と言った。それから、おやつを取りにキッチンに行ってしまった。

 どうしよう。

 僕は一気に恐ろしい気持ちになった。そういうことにしておこうかって、つまり、孝太郎さんは僕の嘘を信じていないってことじゃないか。

 とんでもない秘密が、バレかけている。

 恐ろしくて恐ろしくて、せめてできる償いとして、もう二度と、あの秘密のノートには触らないようにしようと心に誓った。触らなければ、なかったことにできるんじゃないかと思った。

 あれから何日か、僕は、いつまた孝太郎さんに「秘密」のことを聞かれるか、怖くて仕方がなかった。もう一度秘密のことを聞かれてしまったら、今度こそは絶対に逃げられないと思った。だって、もう一回聞いてくるっていうことは、孝太郎さんは僕が嘘をついているのをわかった上で、今度こそ確実に、正直に言わせようとしているっていうことだし、そもそも僕が、あの時みたいに、同じように嘘をつけると思えないから。怖くて怖くて、僕は孝太郎さんと一緒にいる間、ずっと心臓をドキドキさせていた。

 だけど孝太郎さんは、何も言わなかった。

 もしかしたら孝太郎さんは、僕の知らない間にランドセルを覗いて、秘密のノートを見つけてしまったのかもしれない。秘密のノートの表紙には「算数」と書いてあるけれど、孝太郎さんがそんなものに騙されるとは思えない。もし孝太郎さんが、僕の秘密を知った上で、何も言わないのだとしたら、僕にとっては、そっちの方がずっと恐ろしいことだった。知らないふりをされ続けているのだとしたら、自分から白状してしまう方がずっとマシに思えた。僕は注意深く注意深く孝太郎さんを観察したけれど、前と変わった様子は少しもなくて、孝太郎さんが秘密のノートを見つけたかどうかは、さっぱりわからなかった。

 ノートを捨ててしまおうかとも思ったけれど、ノートなんて、どうやって捨てればいいかわからなかった。普通にゴミ箱に入れたら、家でも学校でも、目立ちすぎる。かといって、他にどうやって捨てればいいかなんてのは、少しも思いつかなかった。

 そんな風に悩んでいたら、いつの間にか金曜日が終わっていて、孝太郎さんとお出かけの約束をした土曜日になっていた。

 朝、ゆっくり起きて、二人でゆっくりご飯を食べて、孝太郎さんがお風呂掃除をするのを待ってから、少し電車に乗って、大きいショッピングモールに行った。家を出てからずっと、孝太郎さんは僕の手を握っていた。本当は恥ずかしくて嫌だったけれど、孝太郎さんは「はぐれないようにするためだよ」と言っていて、実際、土曜日だからか人は多くて、何を言っても「はぐれないようにするため」という言葉には勝てない気がしたから、僕は何も言えなかった。

 ショッピングモールでは、孝太郎さんに服を買ってもらった後に、フードコートで一緒にラーメンを食べた。(ちなみに服は孝太郎さんが選んだものを買った。)ラーメンを食べながら、この後は本屋に行って、三時になったらクレープを食べようという話をした。正直に言って僕は本屋に興味がなかったけれど(だって欲しい本は山ほどあるのに、買ってもらえるのはほんの何冊かだけなんだから)、孝太郎さんは僕と本屋に行く時間を楽しみにしているから、行かないわけにはいかなかった。

 本屋では、最初に子供向けの棚に行った。買ってもらえないのに見ても仕方ないじゃないかと思いながらも、せっかく孝太郎さんが連れてきてくれたところだから、しばらく棚を眺めて、適当に科学の本を手に取ったりして、パラパラとめくったりしてみた。五分くらい経ったかなというところで、僕が「もういいです」と言うと、孝太郎さんはわかりやすく「待ってました」みたいな顔をして、「じゃあ次はあっちに行こうか」と、僕の手を引いて大人向けの科学書の棚に行った。孝太郎さんは、何かの細胞の絵が描かれた分厚い本を取って、「いつか湊も読むようになるだろうから、好きな時に読めるように、今のうちに買ってもいいかもしれないね」と言った。孝太郎さんの中で、僕の興味は既に決まっているようだった。

 孝太郎さんが手に取るのは、決まって表紙に微生物みたいな何かがいる本ばかりで、例えば、その向かいにある棚の、数式がいっぱい書いてあったり、宇宙の写真が載っていたりする本には見向きもしなかった。わかってる、これだってパパの……もういいや。

 最後に、多分これは本当の孝太郎さんの趣味で、建物とか自然とかの大きい写真集が置いてあるコーナーに行った。孝太郎さんが写真集を見始めたので、僕も適当なものを手にとって、中身を見た。僕が開いたのは廃墟の写真集だった。廃墟を見たのは、これが初めてだった。ボロボロに崩れて、もう誰もいなくなった建物は、怖いはずなのに、どこか綺麗にも見えて、このなんとなくゾクゾクする感じは、なんだか悪くない気がした。廃墟って結構おもしろいのかも、と思いながら、パラパラとページをめくっていたら、突然、トントンと肩を叩かれて、孝太郎さんに「湊、見て」と言われた。僕が顔を上げると、孝太郎さんはにこにこと笑いながら、「これ、可愛いでしょ」と一枚の写真を指差した。

 そこには、くりくりとした黄色い目の、一匹の黒猫がいた。

 黒猫。

 魔法使いの友達の、猫。

「あ……」

 気づけば僕は、口をあんぐり開けて、石みたいに固まっていた。体は冷たくなって動かないのに、心臓だけが、バクバクと暴れ始めた。

 終わった。

 カッと顔が熱くなっていく。バレてたんだ。やっぱり孝太郎さんにはバレてたんだ。孝太郎さんはもう、僕が書いたお話を読んだんだ。だからこうやって、黒猫の写真を見せてきたんだ。もう知ってるよって、伝えるために。

 僕があんまりにも固まってたからか、孝太郎さんは、「ごめんね、黒猫、怖かったかな?」なんて意味不明なことを言ってきた。意味不明すぎて、孝太郎さんの言葉は、パニックになった僕の頭をすっと通り過ぎていった。

 僕は決心した。

 もう言おう。

 帰ったら、言ってしまおう。

 その瞬間から、もう、僕の頭は「どうやって正直に言うか」だけに支配されて、何も考えることができなくなってしまった。一番の楽しみだったクレープも、せっかく買ってもらったのに、味わうということをしないまま、気がついたら全部、胃の中に入ってしまっていた。クレープを食べていた最中のことは、もう何も覚えていない。帰り道の夕焼けは、いつか何かのアニメで見た、地獄の炎みたいにしか見えなかった。

 家に帰ると、孝太郎さんは野菜炒めを作り始めた。ピッシリ伸びたその背中は、今の僕には地獄の閻魔様にしか見えない。僕は孝太郎さんにテレビを見せられていたけれど、孝太郎さんのことが気になって、テレビなんて見ていられなくて、何回も孝太郎さんの方に目をやってしまう。ふと、孝太郎さんが振り返って、バチリと目が合った。小さく「ひっ」と声が漏れてしまったけれど、孝太郎さんは「もうすぐできるからね」と、にっこり笑うだけだった。

 そのうちに孝太郎さんは「できたよ。食べよう」と僕を呼んだ。言わなきゃ。言うとしたら、夕飯を食べるこのタイミングだと思った。孝太郎さんは「いただきます」と手を合わせると、テレビのチャンネルを次々に変えて、「今日はこれが一番マシかな……」と、クイズ番組のところで手を止めた。それから僕に向かって、「湊、知性には色々なものがあってね、クイズはその中の一つでしかないんだ。有名な大学に行ってることと、クイズが得意なことは、イコールじゃないんだよ」と言った。僕はその言葉をもう何度も聞いていた。けれど、今日に限っては、「またか」なんて思う余裕はなかった。

 野菜を二、三口食べて、テレビがコマーシャルに入ったところで、僕は意を決して「孝太郎さん」と言った。孝太郎さんはこっちを見て優しく「ん?」と言う。僕は口が震えるのを我慢しながら、「ごめんなさい、僕、孝太郎さんに隠していたことがあるんです」と言った。孝太郎さんは何も言わずにこっちを見ている。孝太郎さんは、笑っているのか、怒っているのか、全然、わからない顔をしていた。

 僕はそのまま続けた。「僕、自分でお話を書いてたんです。でも、恥ずかしいから孝太郎さんには言えなかったんです。でも、この前孝太郎さんに、何か隠してるって言われて、嘘ついちゃったけど、でも、やっぱり、嘘は良くないかなって思って、ごめんなさい、僕、隠してました。ごめんなさい」って。ここまで言って、僕は黙ってしまった。これ以上、何を言えばいいか、思いつかなかった。

 怖くて、全然、孝太郎さんの目なんか見られなかった。僕はずっと、机の木目ばっかり見ていた。木目の模様が怒っている人の顔に見えた。顔を上げる勇気が、少しも出ない。心臓が痛いくらいに暴れている。孝太郎さんが、どんな顔をしているのか、わからない。

 しばらくして、「湊……」と、小さく声が聞こえた。それは、怒っているような感じではなくて、がっかりしているような感じでもなくて、どんな感じと言えばいいのか、僕にはわからなかった。わけのわからないまま、僕が下を見てじっとしていると、スッと椅子を静かに引く音が聞こえた。それから孝太郎さんの足音が近づいてきて、後ろから腕が伸びてきて、僕の背中は、優しく、温かい体温に包まれた。

「よく言ってくれたね……」

 孝太郎さんは、今までに聞いたことのないくらい、吐きそうなくらいに、甘い声で言った。言ったというより、ささやいたという感じだった。僕は全身が凍りついた。お仕置きされるかもしれない。お仕置きされるかもしれない。どうしよう、今までで一番怖いお仕置きを、されるかもしれない。

 僕が固まって震えていたら、孝太郎さんは腕を離して、それから代わりに僕の手を取って、僕の椅子の横に膝をついて座った。「湊、こっち向いて」と言われたので、ギギギと錆びたロボットみたいな動きで、顔を向けると、孝太郎さんは顔をほんのり赤くして、「俺、嬉しいよ」と言った。

 え、嬉しい?

 僕が勇気を振り絞って「お仕置きするんですか……?」と聞くと、孝太郎さんは眉毛を上げて、「お仕置き? するわけないよ」と言った。それから孝太郎さんは笑顔で続けた。「君のパパも、昔、小説を書いていたんだ。俺が何も言ってないのに、湊も自然にお話を書くようになるなんて、やっぱり君たちは親子なんだね」って。

 僕の頭は、完全にフリーズしていた。とにかく、お仕置きされないことと、孝太郎さんが何やら喜んでいることに、心の底から安心して、もう何も考えられなかった。孝太郎さんは、もう一度僕を抱きしめてくれたけど、それはもう、何よりも優しくて、温かくて、僕は泣きそうになってしまった。

 孝太郎さんは、「俺にもそのお話、見せてくれる?」と聞いてきた。孝太郎さんは優しくて、僕はもう、この人になら見せてもいいかもしれないと思った。けれど同じくらい、やっぱり見せたくないという気持ちも湧いてきた。決められなくて、僕が黙っていると、孝太郎さんは「俺は批判も口出しもしないよ?」と、首を傾げて言った。違うんだ、批判されるかどうかなんて、どうだっていいんだ。僕が見せたくないのは、そういう理由じゃないんだ。だけど、そういう理由じゃないことはわかっても、どういう理由なのかはわからなかった。

 僕が迷って、黙っていると、孝太郎さんは「湊?」と、少しだけ低い声で言った。孝太郎さんの握る力が、ぐっと、少しだけ、強まった。

 背中がビクッとなって、僕の頭はすぐに、「見せないと」という気持ちで埋め尽くされていった。

 僕が「途中ですけど……」と言うと、孝太郎さんは「途中でいいよ」と言い、「お風呂出たら、ゆっくり読ませてよ」と笑った。僕は頷くしかできなかった。

 夕飯の後は、僕が先にお風呂に入って、その後に孝太郎さんがお風呂に入った。孝太郎さんがお風呂に入っている間、僕はずっと、ノートを握りしめて、リビングのソファに座っていた。テレビをつけていたけれど、内容なんて全然入ってこなかった。

 遠くから、ドライヤーの音が聞こえる。ガタ、ガタ、と、物を片付けているような音が聞こえる。僕は深呼吸して、体が震えるのを、静かにさせようと思った。ガチャリとドアが開いて、孝太郎さんが入ってくる。僕が孝太郎さんの方を見ると、孝太郎さんは「準備しててくれたんだ」と笑った。それから、僕の隣に座って、ピッタリくっついて、僕の肩に手を回して、「これが創作ノートだね?」と僕を見下ろした。僕がページを開いて、「ここからが、お話です」と渡すと、孝太郎さんはノートを膝に置いて、それからページを「前側に」めくって、「こっちには設定が書いてあるんだね」と言った。

 あ!

 そっちはダメ!

 一瞬で顔がカッと熱くなった。そっちはダメだった。本編も本当はダメだけど、そっちはもっとダメだった。僕は孝太郎さんの手を掴んで、「そっちは……」とかなんとか言った。けれど孝太郎さんは、「どうして? 設定も大事な部分だよ」と、構わずページをめくった。

 僕はもう、頭がおかしくなりそうだった。もはや、恥ずかしいとか、そんな感情じゃなかった。心の中を無理やり開かれて、ぐちゃぐちゃに手で引っ掻き回されているような心地だった。僕の、何か大切な、ちょっとつつくだけで壊れてしまいそうな、そんな宝物みたいな部分が、乱暴に掴まれて、取り出されて、全部に点数をつけられているような感じがした。宝物。僕の宝物が、急に、四十点のゴミみたいに思えてきた。

 急に、ノートの中の文字が浮かび上がって、わあわあと責めるように、チクチクと僕の心を刺しにきた。憎しみすら向けられているようだった。「なんで君はこんな文章を書いちゃったの?」って。昔だったら、ノートの文字たちは、踊るように、楽しそうに見えたのに。

 本当に、どうして僕は、こんなものを書いてしまったのだろう。

 孝太郎さんは最後まで読み終えると、「面白かったよ、湊は才能があるね」と、ポンポン頭を撫でた。才能なんて言われても、全然、何も感じなかった。

 それよりも、僕は……。

 孝太郎さんはにこりと笑って、「続き書いたら、また教えてよ」と言った。それから、「俺、湊の書いたお話、いつでも読めるようにしておきたいな」と言った。

「え?」

 孝太郎さんは、いいこと思いついたというように、「このノートはそこに置いておこうよ」と、リビングの小さな本棚を指差した。科学の雑誌や、教科書が置いてある棚。

 ああ。

 僕はもう、全部どうでもよくなってしまった。全身の力が抜けてしまったみたいだった。僕が「いいですよ」と言うと、孝太郎さんは「うん」と笑って、本棚に僕のノートをしまいに行った。

 ノートの背表紙が、本棚の中に埋もれていった。

 多分、続きを書くことは、もう二度とないだろうと思った。



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