黒猫のあしあと 2
「ただいま」
そっと玄関を開けて、ボソリと言う。もしかしたら、孝太郎さんが仕事中かもしれないから。けれどすぐさま、部屋の中から「おかえり!」と、頭にガンと響くような声が返ってきて、孝太郎さんがミーティング中のわけでも、集中しすぎているわけでもないことがわかった。その声はどこか弾むようで、なんとなく不気味だった。
孝太郎さんは部屋から出てくると、靴を脱いでいる途中の僕を強く抱きしめた。それから、「おかえり、湊」ともう一度言った。僕もとりあえず「ただいま」ともう一度言って、軽く抱きしめ返す。前に「普通はこんなことしないんじゃないですか」と言ったら、「シリコンバレーでは普通だよ」と返されて、それ以上、言うことが思いつかなかった。孝太郎さんは僕のほっぺに軽く唇を当てると、「今おやつを用意するから待っててね」と言ってキッチンに向かっていった。孝太郎さんの背中に向かって「仕事はいいんですか」と聞くと、「お昼のミーティングは終わったから」と言われた。
出されたのは、チョコレートがかかった二つのドーナッツと牛乳だった。昔、孝太郎さんに、「君のパパはね、ドーナッツはチョコレートがかかったものしか食べなかったんだよ」と言われたのを、なんとなく思い出した。お腹が空いているわけでもなかったけれど、食べられないほどでもなかったので、ロボットみたいに、何も考えないようにして、どんどん口に押し込んでいった。口の中が乾くので、牛乳があるのがありがたかった。孝太郎さんは僕が食べる様子をにこにことした顔で見ながら、「今日はどうするのかな?」と聞いてきた。
うわ、来た。
正直に言って、僕はこの質問が苦手だった。だってこの後に続くのは、決まって「友達とは遊ばないのかい?」という言葉だから。
僕には友達がいなかった。孝太郎さんの質問に答えるのは、僕には友達がいませんって、宣言しているようなもの。友達がいないのは恥ずかしいことだってわかっていたから、僕は孝太郎さんの質問に答えたくなかった。本当は、友達と遊ぶって嘘をつくことも 考えたけれど、そんな嘘をついて、後でバレたら大変なことになると思ったから、僕は正直に言うと決めていた。子供のつく嘘なんて、きっと、大人には簡単にバレてしまうんだろうから。
僕は正直に、「図書館に行きます」と言った。すると孝太郎さんは、やっぱり、いつものように、「友達とは遊ばないのかい?」と聞いてきた。僕は、嫌だな、という気持ちを頑張って抑えながら、「本を読んでいる方が好きなので」と答えた。嘘じゃない。本を読むことは本当に好きだから。でも、それが、友達と遊ぶことよりも楽しいことなのかは、わからなかった。
僕がそう答えると、孝太郎さんは「そっか」と満足そうに笑った。それから、「六時までには帰ってくるんだよ」と言った。これも、いつものパターン。だけど、僕は、この時の孝太郎さんの笑顔が苦手だった。なんで苦手なのかは、自分でもよくわからなかった。でも、なんか、なんとなく、いつも、ゾワゾワするんだった。たいていの時はそんなこと起こらないのに、たまに、孝太郎さんは、ゾワゾワするような笑顔を見せるんだった。
ドーナッツを食べて 、食器をシンクに置くと、僕はランドセルじゃない方の手提げバッグを持って図書館に行った。図書館に行く途中の公園では、同年代の男の子たちが、地面にコートを描いてサッカーをしていた。正直に言って、ちょっとだけ、羨ましい。でも僕は、「入れて」とは言えなかった。言おうとすると、いつも、口が固まって、結局は、「ごめん、なんでもない」なんて言ってしまうから。そんな僕を見て、男の子たちは、「何こいつ」という顔をして、どこかに行ってしまうから。そのうちに、話しかけるのも怖くなってしまったんだ。
きっと、僕があの中に混ざったら、誰よりもうまいと思うんだけど。
みんなの中をドリブルで一気に抜けるところを想像して、少しだけニヤニヤしていたら、いつの間にか図書館に着いていた。
図書館に着いてから、なんとなく、表紙に魔法使いがいる小説を手に取ってみた。けれど、読み初めて十分も経たないうちに、飽きてしまった。それよりも僕が自分で書いた方が面白いぞと思って、秘密のノートを取り出しては、思いついたアイデアをつらつらと書き出していった。そうだ、こ んなことやらなければよかったんだ。自分で書くなんて、馬鹿なことしなければよかったんだ。
書き始めてから僕の手は止まらなくて、気が付けば時計の針は、夕方の六時を回っていた。
「あ……」
図書館を出ると、孝太郎さんが腕を組んでにこにこ笑っていた。
「孝太郎さん、ごめんなさ……」
「今何時かわかっているかな?」
「……ごめんなさい」
「うん、おうちに帰 ってから話そうね」
「ごめんなさい」
「それよりも、早く帰ってご飯を食べよう。今日は麻婆豆腐なんだ」
「ごめんなさい」
「おうちに帰ってから、ゆっくり話そうか」
孝太郎さんはにっこり笑うと、僕の手を引いて、家までの道を歩き始めた。孝太郎さんの手は生ぬるくて、繋いだ手は、僕の手汗でじっとり濡れていた。空が赤い。道を歩く人たちの影は、妙に黒くて、妙に長い。全部、全部、目に入るだけで、心臓がバクバクしてくる。僕はただ、この後にやってくる「お仕置き」の時間が怖くて仕方がなかった。ハグもキスも慣れたけど、「お仕置き」だけは、何回されても慣れることはなかった。ちら、と孝太郎さんを見上げると、ほんの少しだけ口の端を上げて、小さく鼻歌を歌っていた。
夕飯の麻婆豆腐は、味がしなかった。孝太郎さんは、門限を破られて怒っているはずなのに、なぜか、怒った様子なんかは少しも出さないで、むしろ、楽しそうにテレビに向かってコメントし続けていた。こんな様子を見ていると、孝太郎さんはお仕置きのことなんか忘れちゃったんじゃないかとも思うけれど、そんなことはなくて、今までに孝太郎さんがお仕置きを忘れるなんてことは、一回たりともなかった。
僕はこういう時の孝太郎さんが、お仕置きの最中以上に怖かった。だって、こんなに笑っているのに、ちゃんとお仕置きのことは忘れていないんだから。こういう時の孝太郎さんは、人間のふりをした、何か別の存在なんじゃないかと思った。僕が夕飯を食べ終わると、孝太郎さんは、「お風呂から出たら、俺の部屋に来るんだよ」と優しく言った。
髪を乾かして、孝太郎さんの部屋の前に行く。手が震えている。おそるおそるノックすると、中から「入っていいよ」と明るい声が聞こえた。そろりと扉を開けると、孝太郎さんは腕を組んで、穏やかな笑顔のまま、ベッドの上に座っていた。僕がパタリとド アを閉めると、孝太郎さんは右手を出して「おいで」と言った。多分こういう声を、猫撫で声というんだと思う。僕は口から心臓が飛び出そうになりながら、そろそろと孝太郎さんのところに近づいていった。孝太郎さんは、近づいた僕の腕をガシリと掴むと、そのまま、
※「お仕置き」の内容はセンシティブな表現のため削除しました。
孝太郎さんの部屋には、パパの写真がたくさんある。パパ一人だけが写っているものもあれば、パパと孝太郎さんが、仲良さそうにくっつき合っているものもある。昔の孝太郎さんは、僕が部屋に入る時には、写真に布を被せたりして隠していたけれど、僕が小学三年生になったあたりで隠さなくなっていった。それどころか、僕に写真の思い出を語るようにすらなっていった。なんでなのかはわからない。
僕がうっかりよそ見をしていると、孝太郎さんは、
※「お仕置き」の内容はセンシティブな表現のため削除しました。
お仕置きが終わると、孝太郎さんは優しい力で僕を抱きしめて、「よく頑張ったね。もうおしまいだよ」と言った。それから、「次からはちゃんと帰ってくるんだよ」とも言った。体は痛くて、僕の顔は涙でぐしょぐしょになっていたけど、孝太郎さんはティッシュでそっと拭いてくれた。「俺は湊が心配なんだ」って言いながら。
体も頭も、ガタガタ震えているみたいだった。なのに、今まで怖いことをされていたはずなのに、なぜか、孝太郎さんのハグは、今までに感じた何よりも温かかった。僕は、いつもの優しい孝太郎さんが戻ってきたことに、心の底からほっとした。抱きしめてくれた孝太郎さんが、どうしてだか、神様みたいに思えた。次からは絶対に約束を守ろうと思った。もう絶対に怒らせないようにしようと思った。ずっと優しくしてもらう ために、僕はなんでもしようと思った。自分でも変だと思ったけれど、でも、そう思った。
孝太郎さんは僕の手を引いて、僕の部屋まで来ると、僕をベッドに寝かせて、「おやすみ」と髪の毛にキスした。それから、部屋の電気を消して出ていった。部屋が真っ暗になっても、僕は体が痛くて、なかなか眠れなかった。体も頭も、まだ震えているみたいな感じがした。
朝起きて、ぼんやりした頭のまま、ダイニングに行くと、孝太郎さんが目玉焼きを作っていた。孝太郎さんは僕に気づくと、「おはよう。これが出来たら、起こしに行こうと思ってたんだ」と笑った。孝太郎さんの白い歯が、窓から入ってくる光を反射して、なんとなく気持ち悪くなった。
ダイニングの椅子に座って待っていると、孝太郎さんが目玉焼きとトーストを運んできた。その匂いをかいで、僕の胃はくっと変な動きをした。僕は目玉焼きが苦手だった。ぶるぶるした食感と、変な味が、なんだか深海の生き物をそのまま食べているみたいで、いつも気分が悪くなった。けれど孝太郎さんが、前に「君のパパは毎朝目玉焼きを食べていたんだよ」 と楽しそうに語るのを見てから、僕は目玉焼きが苦手なんです、なんて言えなくなってしまった。
吐きそうになるのを我慢しながら、僕は、鼻で息をしないように、目玉焼きを飲み込む。ひたすらそれを続けていると、孝太郎さんは突然、「今週の土曜日はお出かけしようか」と言った。
お出かけ!
目玉焼きのことなんか一瞬で吹き飛んで、僕の気持ちは、パッと明るくなった。お出かけすれば、孝太郎さんは必ずクレープを買ってくれる。僕はお出かけ先のクレープが大好きだった。僕は何がなんでも、お出かけに行きたかった。
だけど、ぐっとその気持ちを抑えて、僕はちょっとだけ面倒くさそうな顔をして、「お出かけですか……?」と言った。もちろんこれは嘘。本当は、お出かけにはすごく行きたい。けれど、こうやって面倒くさそうな顔をすると、孝太郎さんはすごく嬉しそうな顔をする。これは偶然発見したもの。昔は「お出かけしよう」と 言われたら、すぐに「行きたいです!」なんて答えていたけれど、いつだったか、気分じゃなくて、僕が本当にお出かけに行くのが面倒臭かった時に、「お出かけですか……?」と言ったら、孝太郎さんはちょっと驚いた顔をして、それから「湊はパパに似てきたね」なんて言って、今までに見せたことのない笑顔になったんだった。
それから僕は、お出かけしようと言われた時には、いつも面倒くさそうな顔をすることにしている。そうすると孝太郎さんは嬉しそうにするし、僕がそういう顔をしたところで、結局、お出かけに行くことにはなるんだから。ほら、今だって、孝太郎さんは、何かとっても愛おしいものを見るような目をしている。普通に「行きたいです」なんて言ったら、そんな顔しないのに。
そのあとは普通に学校に行って、普通に勉強と体育をやって、普通に帰ってきて、いつも通り、孝太郎さんの「友達とは遊ばないのかい?」に答えて、図書館に行って、今日は時間通りに帰ってきて、普通に夕飯を食べて、孝太郎さんと並んでテレビを見た。テレビを見ている間、孝太郎さんはずっと僕の肩に手を回していた。孝太郎さんが見せてくるのが、ディスカバリーチャンネルばっかりなのと、パパが科学者だったことは、関係がないとは思えなかった。