黒猫のあしあと 11
「ノア生き返ってよかったぁ!」
月曜日、僕は俊介くんに、創作ノートの続きを見せた。もし俊介くんが、例の黒猫が死んだシーンを読んでいても、読んでいなかったとしても、生き返らせたのなら、僕が怖い人だと思われる心配はなくなったと思ったから。
黒猫が生き返ったことを、俊介くんは素直に喜んだ。僕は嬉しくなるよりも前に、それでいいんだ、って、一瞬だけ思ってしまって、自分はなんて性格が悪い人間なんだろうと悲しくなった。
「湊くん、俺いいもの持ってきたんだ!」
俊介くんは、ランドセルから何か分厚い本を取り出して、僕に見せてきた。
「これ、うちにあった昆虫図鑑! 湊くん、好きかと思って!」
まっすぐすぎる目だった。僕は「ありがとう」と言って、ただ受け取ることしかできなかった。
「湊、これ、嘘だよね?」
夕飯の後、俊介くんに借りた図鑑を眺めていたら、孝太郎さんが小さく口の端を上げながら、片手に創作ノートを持って、僕を見下ろしていた。
「え……?」
「ノアくんが車に轢かれて、俺、やっと湊が本当の自分を出してくれたと思ったんだけど」
「いや……その……」
「湊、創作っていうのは、正直にやらないとダメなんだよ」
「……ごめんなさい」
「うん」
そう言うと孝太郎さんはにっこり笑って、「湊なら、ここからでもうまく書けると思うから」と言って、創作ノートをまたリビングの棚に戻した。僕はなんとなく嫌な感じがしたけれど、何が嫌なのか、自分でもわからなかった。
「湊。俺、お風呂入ってくるね」
「あの、孝太郎さん」
「ん?」
着替えを持った孝太郎さんが、小さく笑ったまま振り返る。
「なにかな?」
「僕のパパって、どんな小説、書いてたんですか」
「……」
「……」
「……子供には難しいやつ、かな」
孝太郎さんは、少しだけ低い声で答えて、そのままお風呂に向かっていってしまった。
次の日の学校でも、俊介くんは本を持ってきてくれた。それも、三冊。今度は、子供向けの、科学の漫画のやつだった。「見てみて!」と言われて、パラパラめくってみると、いろんな科学現象が、少しずつ、楽しく、漫画の形式で紹介されていた。
「湊くん、好きかなーって思って!」
俊介くんはにっこり笑った。
「……うん、ありがとう」
……。
その日は俊介くんに用事があって、遊ばないことになったから、僕は家で俊介くんに借りた漫画を読んでいた。半分くらいは、知ってる知識。漫画としては面白いけど、新しい発見は少ない。
孝太郎さんは、仕事の休憩時間に僕を構いにきた。体をぺったりくっつけて、「何読んでるの?」と聞いてきたから、僕は「俊介くんが貸してくれた漫画です」と言って、表紙を見せた。孝太郎さんは「へえ、俊介くん、こんなの持ってるんだね」と少し驚いた顔をして、けれどすぐに「湊とは本当に話が合うんだね」と嬉しそうに笑った。その顔を見て、僕が前に言ったこと……科学なんか興味ないですっていう言葉が、孝太郎さんの中で、嫌な感じで残っていなさそうなのがわかって、ちょっとだけホッとした。けれど、それと同じくらい、モヤモヤもした。だって、孝太郎さん、僕のことを、また「完全に」科学が好きな子みたいに言うから……僕の気にしすぎなのかな。
この日の夜は、自分の部屋で創作ノートの続きを書いていた。黒猫が死んで、生き返った、その後の部分。書こうと思っても、手が全然動かない。
やっぱり僕には、黒猫がゾンビに見える。孝太郎さんの言う通り、黒猫を生き返らせたことは「嘘」だったんだろう。でも、だからって、嘘じゃない創作なんてのも、僕にはわからなかった。それで、うーん、と頭をひねっていたら、ふと、ある考えが湧いてきた。
あれ? 孝太郎さんの言ってたことって、つまり、
黒猫を殺す、残忍な僕こそが、本当の僕だったってこと?
その瞬間、僕は一気に怖くなった。自分のことが、恐ろしくて、気持ち悪くなった。
僕って、自分のことを普通だと思ってただけで、本当は普通じゃなかったってこと? 僕って、本性はやっぱり、凶悪な犯罪者だったってこと?
やだ。そんなの、絶対やだ。
気がついたら主人公は、科学研究所にいた。黒猫と一緒に研究所に行って、「すごいね」って科学に感動していた。偉い科学者のおじさんに弟子入りしていた。科学の力で、みんなの命を守るのが使命になっていた。次の日も、その次の日も、主人公と黒猫は、科学に熱中した。研究所から一歩も出ないで、主人公と黒猫は研究した。熱心に、それで、何より、楽しそうに、研究した。
次の日、俊介くんに新しいパートを見せたら、「主人公たち、偉いね!」と言った。研究所に来たことが偉いのか、弟子入りしたことが偉いのか、みんなの命を守る使命を持ったことが偉いのか、研究所の外にも出ずに研究しているのが偉いのか、わからなかったけれど、とにかく、俊介くんは嬉しそうな顔をしていた。それどころか、どこか誇らしげな様子すら、あった気がした。俊介くんは、「ごめんね、今日は本持ってきてないんだ。俺んちにある科学の本は、昨日貸したあれで全部!」と、顔の前で手を合わせて言った。僕は「別にいいよ」と言った。
「でもさ、」
俊介くんが口を開く。
「海の向こうには、いつ行くの?」
俊介くんは、顔を少し傾けて、まっすぐな目を向けてきた。
ああ。
「海の向こうの世界に行くのが夢なんだ」
確かに書いた。
そうだね。
僕は昔、そんなことを書いたね。主人公に、しっかり言わせたし、海の向こうに行くために、主人公のお父さんの目をどうやってごまかすかなんて、そんな作戦を立てたりもさせたね。けれど……
「主人公も、黒猫も、みんなの命を守らなくちゃいけないから」
僕は普通の顔で、普通に言った。
実際、そうだよ。主人公も、黒猫も、いい人なんだから。
俊介くんは「そっか、そうだよね!」と言って笑った。
「湊くんが書く話だもん、いい人に決まってるよね!」
僕は「うん」と言って、小さく笑った。
海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。
頭の中で、その言葉が響いた。
海の向こうの世界に行くのが
黙れよ。
「湊くん?」
……。
「……湊くん?」
「あっ」
俊介くんが、心配そうに僕を見ている。
「ごめん、ぼーっとしちゃった……」
「ううん、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
……。
授業中も、その言葉が、頭にこびりついて離れなかった。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。大人とも子供ともつかない声。本気で、ワクワクしているような、そんな、声。
ダメだよ、君たちはもう、研究をしなくちゃいけないんだから。
海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。
だから、ダメなんだって。
海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。
だから……
海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ。海の向こうの世界に行くのが夢なんだ……
ああもう!
……。
家に帰って、僕はすぐに創作ノートを開いた。続きを書くため。
僕は研究の喜びを書かなくちゃいけなかった。主人公たちを研究で成功させなくちゃならなかった。
前のページなんか、見ちゃいけなかった。
書いた。とにかく書いた。
宿題の計算ドリルを解くみたいに、書いていった。
漢字ドリルを埋めていくみたいに、書いていった。