恋人のやり方がわからない 3
11
さて、一睡もしなかった翌日ですが、意外にも身体はピンピンとしていました。
寝不足とは、私が思っていたよりも、大したことではなかったのでしょうか。
私はあのノートをカバンに入れて、ルンルン気分で登校しました。スキップもしたいし、鼻歌も歌いたい。一つ絵が完成したのだから、そりゃあ上機嫌にもなるものでしょう。寝不足によるテンションの狂いもあるかもしれませんが、それはまあ、いいのです。
私は席につき、いつものように文庫本を開くと、ろくに文字も追わずにチラチラと教室のドアを確認していました。別に、五十嵐くんを探しているわけではありません。本当に、五十嵐くんを探しているわけでは……。
「あっ、五十嵐くん!」
五十嵐くんが入ってきた瞬間、私は席を立っていました。五十嵐くんは小さく目を見開くと 、「成瀬?」と小さく聞き返してきました。
「五十嵐くん、俺ね……」
そう言った瞬間、ホームルームのチャイムが鳴りました。そうでした、五十嵐くんはホームルームギリギリ勢だったのでした。
「成瀬、なんか用か?」
チャイムが鳴ってもなお、五十嵐くんは聞いてきました。いや、あれは、そんなにすぐに終われる用事ではありません!
「あっ、いや、後でいいよ」
私が慌ててそう言うと、五十嵐くんは「そうか」と言って、自分の席に向かっていきました。それから退屈なホームルームが始まり……なんだかひどい吐き気と頭痛がしてきて、結局私は、保健室に行くことになりました。寝不足とは、大したことないものではなかったのですか。寝不足の人間など、世の中にいくらでもいるではありませんか。なぜ私は、たった一日の徹夜でこうもへばっているのですか。
世の中とは、なぜ、こうも理不尽なのですか。
……。
12
私が復帰したのは、ちょうど昼食の頃でした。保健室のベッドで一眠りした後には、身体の調子もすっかり回復しており、教室に戻って、普段通りにお弁当を食べることになったのです。
そうして普段通り、自分の机でお弁当箱を開けて、普段通り食べ終え、残りの時間で、とりあえず本を開いた時でした。
「成瀬」
突然、五十嵐くんの声が降ってきました。
「っ!」
突然来ないでください!
「……何かな?」
小さく肩を跳ね上がらせつつ、努めて、かなり頑張り、冷静な声で聞くと、五十嵐くんは「いや、今朝の用事……」と言いました。
あ。
「なんか言おうとしてただろ」
あ……。
「今ならいいかなって……お前調子大丈夫か?」
「いや……」
今朝の異様なテンション。
今朝の異様な、異様な……。
「あ、その……」
「……?」
「いや、大丈夫ではあるんだけど、大丈夫じゃないかもしれないとい うか……」
「じゃあ保健室に……」
「いや、やっぱり大丈夫……」
「そうか……」
それから五十嵐くんは、「じゃあ用事は……」と聞いてきました。そうですよね、聞きますよね。
「用事……」
「なんか、今朝言ってたろ……」
「えっと……」
用事。完全に、あれです。絵です。
「その……」
まずい。
何がそう、まずいか。一眠りして、冷静になって、わかったのです。
ただのクラスメートに、 わざわざ徹夜してまで描いた絵を、わざわざ声をかけるほどの重大な用事として見せるのは、かなり、変です。
「えっと……」
私が口ごもっていると、五十嵐くんは小さく首を傾げて、覗き込むように私の顔を見つめてきました。
「その……」
「言いづらいやつか?」
「言いづらいというか、その……」
五十嵐くんは、まだこちらをじっと見ています。
純粋に気になるという顔で、逃がしてくれそうにありません。と、思ったら、
「言いづらいなら、別に……」
と、急に引いていきました。
あっ、えっ。
行ってしまうのですか!?
「絵を!」
「えを?」
「絵を、描いたんだ」
……。
ああ……白状してしまいました。
「昨日、絵、見せたでしょ?」
「ああ」
「あれ、まだ完成してなかったんだ」
「そうだったのか……?」
「だから、昨日完成させて!」
「……」
「見てもらおう……かな……と……」
声が萎んでいきます。やっぱり変です、こんなの。
言いながら、私はますます恥ずかしくなってしまいました。顔が赤くなっていくのが、自分でもわかります。五十嵐くんの顔が見られません。
私は本当に、何を言っているのでしょう……。
五十嵐くんも、何も言いません。やっぱり、言わない方がよかったか。五十嵐くんは引いていないか。そう、恐る恐る、見上げた時でした。
「見たい」
五十嵐くんは、ポツリと言いました。
「見せてくれるんだろ? 見たい」
今度は少しだけ強めの声で言いました。
そしてまた、じっと見ています。
いや、そんな声で、そんな顔で、見られたら……。
「今、出すね……」
私は結局、言われるがままにノートを出しました。私から言い出したのに、言われるがままとは、一体どういうことでしょう。
ノートを出す手は、わずかに震えていました。これは、自分の創作をさらけ出す時特有の緊張です。きっと、そうですよね?
「これ……」
ほとんど消えそうな声で言い、私はノートを開きました。それから、恐ろしい審判を待つように、五十嵐くんを見ました。しかし……いや、すると……? 五十嵐くんは目をパチリとさせて、
「すげえ……」
と、言いました。
「うまいな……」
「うまい……?」
「昨日のと全然ちげえ……」
「昨日のは全然、完成してなかったから……」
「すげえ……」
「本当……?」
五十嵐くんは目をパチパチとさせると、「本当」と言いました。それから、
「俺に見せてくれたの、嬉しい」
と、言いました。
……。
なんですかそれ。
見せてくれて、嬉しい……?
「っ……!」
急に、身体の奥から何かが湧いてきました。私は手の震えを誤魔化すように、「っていう、そういう感じ!」と言って、サッとノートを閉じました。五十嵐くんから「あっ」と声が聞こえてきましたが、そんなのを気にする余裕などあるわけがありません!
ちょうどよく、チャイムが鳴りました。私は「見てくれて、ありがとう!」と、ほとんど投げやりな声で、叫ぶように言いました。五十嵐くんは、「おう……」と言って、席に戻っていきました。
困惑された?
自分でもわかる。
今のは、かなり恥ずかしい挙動だ!
でも五十嵐くん、見せてくれて嬉しいって……。
見せてくれて嬉しいって……。
……。
13
「成瀬、今日も一緒に帰んねえ?」
「……!?」
五十嵐くんが、用事もないのに帰宅を誘ってきた……!?
「うん、いいよ」
私は努めて自然な声で言いました。そうして、二人並んで、昇降口を出ました。
「……」
「……」
無言。
かなり、いつも通りの無言……。
「成瀬」
……では、ありませんでした。
五十嵐くんが話しかけてきました。
「何かな?」
「あの絵って……」
「絵……?」
「俺にしか見せてないのか?」
……。
「……見せてないよ」
「……」
「そうか」
五十嵐くんは、それだけ言って、前を向きました。
そこからは再び、無言でした。
……。
別れ際まで、ずっと無言でした。
「じゃあね」
「ああ」
T字路で手を振ると、五十嵐くんは小さく手を上げて去っていきました。私は俯き気味のまま、再び歩きました。
俺にしか見せてないのか?
見せてないよ。
見せてくれて嬉しい。
そんな。
見せてくれて嬉しい……。
そんな……。
……。
気づけば早足になって、段々と早くなって、最後にはほとんど走るように大通りを抜けていました。勢いよく家のドアを開け、部屋のドアを開けて、カバンを投げて、そうしてベッドに顔を埋めました。
「なんで、これだけのことで……」
いつの間にか、心臓はバクバクと暴れていました。
その声は幸いにも、誰にも届きませんでした。
14
「成瀬、今日でけえ雲あったぞ」
休み時間、五十嵐くんは突然来たかと思えば、それだけ言って去ろうとしました。
「え、ま、待って、なんで雲?」
急いで呼び止めると、五十嵐くんは「いや、好きかなと思って」と、頭の後ろに手をやって言いました。
五十嵐くん???
また別の日には、「成瀬、今日すげえ丸い雲あったぞ」と報告してきました。
「な、なんで?」
「いや、好きかなと思って」
……昨日と同じ回答!
また別の日には、「成瀬、今すげえでけえ雲あるぞ」と、現在進行形で報告してきました。
「……なんで?」
「いや、好きかなと思って」
……また同じ回答!
「見にいくか?」
「行くけど……」
なんとなくそう答えてしまいました。
そうして窓際の五十嵐くんの席に移動しましたが……。
「なんで俺に雲……?」
聞いてみたら、
「お前、絵描くじゃん。だから……」
「……」
とのことでした。
……それでわざわざ報告しに来てくれたのですか?
「ほら、あれ……」
「あ、本当にでかい……」
私たちは並んで雲を眺めました。本当に、空一面を覆うような巨大な雲が広がっていました。
……これは、思ったよりレアだ。
「……」
「……」
「……」
「……」
……いや、五十嵐くんが横にいるのに雲ばっかり見すぎかな。
一応横も気にしておこうかな。
そうして、チラリと隣を見た時でした。
「……五十嵐くん?」
五十嵐くんは頬杖をついて、こちらを真っ直ぐに見ていました。
「あ、悪い」
そう言うと五十嵐くんは、
「なんかお前、そういう顔で雲見るんだなって……」
と、なんでもないように言いました。
「そういう顔って……」
「集中してる顔」
いや、そうじゃなくて……。
「俺、すごい変な顔してた……?」
「いや、かっこいい」
「……」
か、かっこいい!?
「そんな、かっこいいだなんて……」
「いや、うん……」
「……」
「……」
なっ、なんですかこの空気!
こんなのまるで……!
「つまり俺は良い表情をしていたってことだね?」
私は必死に、誤魔化そうと思って言葉を捻り出しました。
そしてその言葉は、まるで監督に褒められていい気になった役者のようでした。
なんだこれ……。
かなり、かなり変なことを言ったのに、五十嵐くんは、
「そうだ」
だけで流しました。
「……」
「……」
……本当に、なんだこれ。
でも。
「……この雲、珍しいからもうちょっと見てっていい?」
「いいよ、好きに見てけ……」
レアな雲には抗えませんでした。
そうして次のチャイムが鳴るまで、私たちは並んで空を見ていました。
15
「成瀬、今日も一緒に帰んね?」
今日も、五十嵐くんは誘ってきました。
「……うん、いいよ」
嫌ではありません。私は素直に誘いに乗りました。
今日も私たちは、並んで昇降口を出ました。
「……」
「……」
「……今日寒くね」
「寒いね」
会話はそれだけでした。
「じゃあ、またな」
「うん、またね」
T字路で手を振ると、五十嵐くんは背中を向けて去っていきました。
行っちゃう……。
妙にその背中から、目が離せませんでした。