恋人のやり方がわからない 10
46
……。
時計の針と、遠くで家族が、食器を片付ける音がする。
……。
……忘れられない。
忘れられるわけがない。
指でそっと、唇に触れてみました。
瞬間、甘い、甘い電流が、身体中を走りました。
……これ、ダメだ。
……。
47
翌日、悠介くんは風邪を引いて学校を休みました。ラインに「悪い、風邪引いた」とメッセージが来ていました。
いないんだ。
助かった。
……いや、何が?
……。
私は学校に着いてから、悠介くんに「お大事にね」というメッセージと、「お大事に」と言っている黒猫のスタンプを送りました。送ってから、まったく同じことを二回も言ったことに気付きましたが……「ありがとうな」と返ってきて、まあいいかとスマホを閉じました。
助かった、なんて思いつつ、やっぱり悠介くんがいないのは寂しいです。蛾の報告も、雲の報告もない。
窓際に、空席がある。
そこだけぽっかりと穴が空いている。
視界から色がなくなってしまったかのよう……、
というのが、誇張に思えません。
仕方なく私は、自分の席で文庫本を開きました。内容は頭に入ってきません。周りの視線から身を守るための、形だけの読書。この感じも、久しぶりです。
今日は一言も声を出さずに終わるのだろうな。
そういえば昔は、こんなのばっかりだったな。
と、思っていた時でした。
「成瀬、何読んでんだ?」
頭の上から、男子生徒の声が降ってきました。見上げた先にいたのは確かバスケ部の……名前はBくんとしておきましょう。
「こういうやつ」
私は本をパタンを閉じて、表紙を見せました。
「へぇ、それ、面白い?」
「それなりに」
私は社交用の、そこそこの笑顔を張り付けて言いました。社交用の笑顔、これも随分と久しぶりです。
読んでないだなんて、本当のことは言いませんでした。ここで言えば面倒な会話が始まることくらい、わかりきっていました。
「へぇ、どのへんが?」
「まだ最初の方しか読んでないから、よくわからないかな」
「ふーん……」
なんか、面倒だな。
早く帰ってくれないかな。
と思いつつ、帰ってもらうためのスマートな方法が思いつくわけでもありませんでした。私は困ってしまいました。そうして、視線を彷徨わせた時でした。
……見ている。
男子グループが、こちらを見ている。
あれは確か、Bくんがいつも一緒にいるグループだったはず……。
私は眉間にシワを寄せました。
それでも、Bくんは構わず話しかけてきます。
「今日、五十嵐いないんだな」
……どうして五十嵐くんを?
「お前ら最近、ずっと一緒にいるからさ」
……そうでしたね。
「お 前って、意外とよく喋るんだな」
……悪いですか。
「お前らもしかして付き合って……」
「秘密」
そう言って、立ち上がりました。
「それは、秘密」
「え……」
「じゃあ、俺、用事があるから」
そう言って私は、感じの悪くない最低限の笑顔を浮かべたまま、背中を向けました。
ああ……そうです、はじめからこうしていればよかったのでした。なぜ席を立つという簡単な方法が思いつかなかったのでしょう。私はトイレに向かい、洗面台で顔を洗うと、意味もなく廊下を歩いて、ホームルームが始まる直前まで歩いてから、自分の教室に戻りました。
48
さて、この種のものは、一度気づいてしまうと、気になって仕方がなくなってしまうものです。
授業の合間の休み時間、Bくんたちが、チラチラとこちらを見てきます。彼らだけではありません。女子生徒たちまでもが、見てきます。クラスで目立っている女子グループも、目立たない女子グループも、見てきます。唯一、オタクグループの男子たちだけは、いつものように、ゲームやアニメの話に花を咲かせていました。見ていないグループがわかるということは、逆に、見ているグループもわかるのです。
嫌な、視線です。
もしかしてずっと、そう見られていたということでしょうか。
いつから私は、そんな目で見られていたのでしょうか。
ふと、一人の女子生徒と目が合いました。その女子生徒はぽっと顔を赤くさせると、勢いよく顔を背けて、グループとの会話に戻っていきました。彼女たちは両手で口元を抑えて、目ぇ合っちゃった、やばいなどと、小声のようで小声ではない声で盛り上がります。
そうでした。そういえば私は、美形でしたね。
……。
……。
……気になるなぁ。
私は席を立って、グループの中にいるBくんの元へ行きました。
Bくんは私が向かってくるのを見ると、サッとグループの中央あたりに目線を向けました。明らかに、私から目を背けました。ですがまあ、先に来たのはBくんの方なのだから、別にいいでしょう。
私も随分、図太くなったものです。
悠介くんと仲良くなる前は、こんなこと、できたでしょうか。
「ちょっといいかな」
Bくんの肩をトンと叩くと、Bくんはビクっと五センチほど体を跳ね上がらせて、「なんだよ」と、振り返りました。私は特に前置きもせず、聞きました。
「俺のこと、見てたよね」
「え……いや……」
「責めてるわけじゃなくて。ただ、なんで見てたのか気になって」
「いや……それは……」
そう言うとBくんは、曖昧にグループのメンバーたちに目配せをしました。困った時のアイコンタクト。おい、どうすんだよ。知らねえよ。お前がやったんだろ。そんな声が聞こえてくる気がします。あくまで気がするだけですが……そのくらいは、私にもわかるのです。
「……」
「……」
「……」
「……」
沈黙。
……。
いや、感情に任せて来てしまいましたが、別にこちらに何か策があるわけではありません。悠介くんとの会話で沈黙は慣れたつもりでしたが……相手は悠介くんではありません。今回に関してはどうしようもありません。私にはどうすることもできません。
だからといって、ここで「ごめん、変なこと聞いちゃった」と引き返すのも、なんだかおかしな気がしますし……。
どうしましょう……。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「あ〜〜〜〜〜〜!!!」
Bくんは突然声を出すと、頭の後ろをわしわしと掻き、「お前、最近目立ってんだよ!」と、わけのわからないことを言いました。
「え……?」
……???
ついていけません。
「気づいてねえの? お前五十嵐と喋るようになってから変わりすぎだって、みんな気になってんだよ!」
「は……」
変わりすぎ? 私が?
「俺が?」
「そうだよ!」
……つまり、悠介くんと話しているところを、認識されていた?
こんな、世界の隅で大人しく生きているような人間が?
悠介くんだって、目立つタイプの生徒ではありませんでしたよね……?
「……???」
私が困惑していると、「お前自覚ねえの?」と、グループの別の男子生徒が雑に言葉を投げてきました。私が「俺、目立つ方じゃないけど……」と言うと、その男子生徒は「いやお前五十嵐と喋ってる時、すげえ目立ってんぞ」と、これまた雑に返してきました。
「え……?」
「お前、五十嵐と喋ってる時だけ声がでかい」
「え……?」
声が、でかい……??
「俺、そんなに声大きかった……?」
「めちゃくちゃデカかった」
これまた別の生徒が言いました。
「……」
なんですかそれ。
なんですかそれ!!!
「そっか、そうだったんだね、ありがとう、わかったよ……」
私はなんとか一息で言いましたが……その声はひどく震えていました。Bくんは「おう」と困惑したような声で言いました。他の男子生徒たちも、なぜか黙ってしまいました。
今になって気になり始めました。
グループの視線が、集まっている。
みんな、見ている。
……!!!
熱い。顔が熱くて仕方がありません。どれだけひどい顔になっているか、想像しただけで暴れたくなります。
「……」
それ以上そこにいることができず、私は蚊の鳴くような声で「お邪魔しました」と言うと、そそくさと退散しました。
恥ずかしい。
今のは本当に、恥ずかしい。
私は机に突っ伏しました。私の全身は震えていました。羞恥です。これは純然たる羞恥です!
文庫本を出すことすらできません。今顔を上げたら、何かが終わる気がしました。
今この瞬 間も、私は、Bくんたちのグループに見られているのでしょうか。
他のグループにも、見られているのでしょうか。
……。
きっと、見られているでしょう! あんな醜態を晒した後なのですから!
顔を上げられない。
今彼らの存在を認識したら、耐えられなくて潰れてしまう!
幸いにも、突っ伏してからすぐにチャイムが鳴りました。生徒たちが席に戻っていく音が聞こえます。皆が席につき、すっかり静かになってから、私はそろそろと顔を上げました。教師が授業を始めました。私は黒板だけを、必死に凝視しました。
49
この種の羞恥は、どう扱えばいいのでしょう。私には、永遠の謎に思えます。
一人で弁当を食べながら、私は眉間にぎゅっと力を入れていました。こうでもしていなければ、恥ずかしさでおかしくなってしまいそうだったのです。
視線はただ一点、弁当だけに集中し、決して周りは見ませんでした。
今はブロッコリーに集中するのです。そう、ブロッコリー、ただ一つに……。
「ねぇ、成瀬くん! ……うわ、眉間すご」
「!!」
突然、前方から女子生徒の声が飛んできました。危うくむせそうになりましたが、なんとか大事故になる前に持ちこたえ……私は見上げました。
そこにいた のは四人の女子グループでした。それも、クラスで最も目立っているグループでした。今朝、目が合ったグループとは違う生徒たちです。
私は精一杯の社交用笑顔を作り、言いました。
「……何か用かな?」
「んー? 話しかけてみたくなっただけだけど」
女子グループの一人はそう言うと、周りに向かって「ね〜」と言いました。何が「ね〜」なのでしょう。
私は引き攣った笑顔で続けました。
「俺、別に面白い話できないよ……?」
「でも五十嵐くんといる時、めっちゃ面白いよね」
そう言うと再びその女子は、周りに向かって「ね〜」と言いました。
五十嵐くんといる時めっちゃ面白い? 待ってください、今の言葉はどういうことですか。
しかし彼女たちは私の困惑など待ってはくれません。
「話しかけようってみんなで言ってたんだよね」
「なんか五十嵐くんと喋ってるとこ見て、意外と面白い人なのかな〜って」
「そ〜、だから仲良くなれたらいいよね〜って」
「普通にイケメンだし」
「はぁ……」
本当に、はぁとしか言えません。普段の私のペースとあまりに違います。意味を理解するので精一杯です。笑顔は保っていますし、平静も装っていますが、普通に、ちゃんと、パニックです。
「いつも五十嵐くんといるから、話しかけらんなくて!」
「昔は一人だったけど……」
「昔は喋んなかったでしょ!」
それはそうです。
「ね〜、りっちゃんって呼んでいい?」
急ですね。
「いいけど……」
勢いで了承してしまいました。
「やった〜!」
それから四人は何かを一方的に喋った後、「りっちゃんまたね〜」と去っていきました。
……。
りっちゃんになってしまった……。
私はぼんやりした頭のまま、残りの弁当を食べました。
50
結局悠介くんは、三日休みました。その間、夜の連絡は欠かしませんでした。お見舞いにも行こうと思ったのですが、「うつしたら悪いから」と言われ、断られてしまいました。そう言われたところで、行くかどうかは迷ったのですが、悠介くんの懸念通り本当に私にうつってしまったら気に病ませてしまいそうなので、行かないことにしました。代わりに、待ってるよと送っておきました。
そうして、悠介くんが三日ぶりに登校した朝でした。
「あ、五十嵐くんじゃん〜」
「じゃ、うちらは帰ります〜」
「またね〜りっちゃん先生〜」
私の周りにいた女子たちは、悠介くんを見るなり、ニコニコと笑いながら去っていきました。
「……?」
悠介くんの頭には、私にもはっきりとわかるくらい、いくつものハテナが浮かんでいました。
「あ……おはよ、悠介くん」
「はよ……」
「体調はもう大丈夫?」
「ああ……それよりもあの女子たち……」
「なんか話しかけられて……一緒に数学の勉強やったら、りっちゃん先生になっちゃった……」
「……???」
「言われてもわかんないよね、でも俺も、よくわかんないんだ」
「……そうか」
悠介くんは納得しているのかしていないのかよくわからない顔で、「とりあえず荷物置いてくる……」と机に行きました。そしてすぐに戻ってきて、「り っちゃん先生ってなんだ……?」と聞いてきました。私はもう一度、「なんか一人でいたら話しかけられて、放課後、みんなで一緒に数学の勉強会やったら、りっちゃん先生ってあだ名つけられちゃったんだ」と、先の説明とほぼ同じことを言いました。
悠介くんは「なるほど……?」と言っていました。