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恋人のやり方がわからない 7

31

 

「……まだ熱いな」

 ベッドの上で、握られた右手を眺めていました。

 ご飯を食べても、シャワーを浴びても、まだ、熱いです。

 ……ゴツゴツしているようで、意外と、柔らかかったな……。

 ……。

「っ〜〜〜!」

 ああ、私は、何を考えているのでしょうか!

 


 

32

 

 翌朝も五十嵐くんは、私より早く登校していました。

 昨日のようにバチリと目が合って、つい、じっと見つめ合ってしまって、ふと女子生徒の「あの」の記憶が蘇り、そそくさと席につきました。

 そこから五十嵐くんのことは、見られませんでした。

 なんで。

 もう普通の友達じゃないのだから、普通の友達よりも、ずっと、見ていたっていいはずなのに。

 もっと、近づいたっていいはずなのに。

 椅子に座って机に突っ伏すと、窓際の方から足音が近づいてきました。知らないフリをしようか、いや、できない。

 私は結局、顔を上げました。五十嵐くんは心配そうな表情で、「成瀬、もしかして体調悪いか?」と聞いてきました。

「いや、悪くないよ……」

「そうか」

 そう言うと五十嵐くんは、あからさまにほっとしたように一つ息を吐きました。そうして、

「成瀬、蛾がいた」

 と、謎の報告をしてきました。

 ……。

 ……蛾?

「え、蛾……?」

 私は本気で困惑してしまい、五十嵐くんの顔をついじろじろ見てしまいました。すると五十嵐くんは手を頭の後ろにやり、「悪い、嘘ついた」と言いました。

「嘘……?」

「蛾とかいねえ」

「じゃあなんで……」

「お前、昨日から深刻そうな顔してるから……」

「……」

「蛾の話とか、ちょうどいいかなって……」

「……」

 ……いや。

 なんですかそれ。

 本当に、なんですか、それ?

 意味がわからない。

「ふふっ……」

「……!」

「五十嵐くん、何それ」

 いや、それは普通に可笑しいですよ。

 そんなこと言われたら、普通に笑ってしまうではありませんか。私が小さく声を上げて笑うと、五十嵐くんはパッと顔を明るくさせて、それから安心したようにふっと顔を緩ませました。

 あ。

 可愛い。

「五十嵐くん、可愛い」

 私は笑った勢いで、言っていました。五十嵐くんはポッと顔を赤くさせると、目を逸らして「いや……」と言いかけ、一瞬止まり、再び私を見ると「お前も可愛いよ」と、妙にはっきりとした声で言いました。

 いやに真っ直ぐな目。

 これ、からかいの可愛いじゃないのですよね。

 本気の可愛いなのですよね。

「あ……そんな……」

 ……これ、どう受け取ればいいのでしょうか。

 ちょうどよく、チャイムが鳴りました。

 助かった。

 本当に、助かった。

 


 

33

 

「成瀬、今度俺んち来ないか?」

 お弁当の時、五十嵐くんは突然言ってきました。

「えっ」

 本当に突然でした。

「嫌なら別に……」

「嫌じゃない、行きたい!」

 撤回されそうになり、私は急いで言いました。勢いで大きな声が出てしまったことにはその後気づき、私は咳払いで誤魔化しました。

 一方の五十嵐くんは、「本当か?」と、わかりやすく顔を明るくさせました。そうして今度は、

「今日、来るか……?」

 と、やけに遠慮がちな様子で誘ってきました。

 急に、遠慮がちになった……!

「うん、行きたい……!」

 その後はまた、いつものように無言でした。ですが私の心臓は、ひそかに、静かに、暴れていました。

 付き合っている人の家……。

 いや、家に行くくらい、友達同士でもやるじゃないか……。

 でも、付き合っている人の家……。

 五十嵐くんの、家……!

 


 

34

 

 帰り道、私と五十嵐くんは並んで歩いていました。当たり前です。五十嵐くんの家に行くのですから。

「俺んち、こっちだから……」

 いつものT字路を、私は初めて曲がりました。

 この先に、五十嵐くんの家がある。

 五十嵐くんの生活があるところに行く。そして多分、五十嵐くんと二人きりになる。

 付き合っている人として。

 ……。

「五十嵐くん……俺、人の家行くの慣れてないから、変なことしたらごめんね……」

 一体、なんの予防線でしょう。ですが五十嵐くんは、

「大丈夫だよ」

 と、いつもの調子で言ってくれました。

「俺んち、別に何されても平気だから……」

「……そんなことはないよね?」

「いや、本当に……」

 そんなわけはないでしょう。

 ですが、今の言葉でふっと緊張が解けていきました。

 そっか、何してもいいのか……なんて、素直に受け取るほど素朴ではなかったつもりなのですが。

「ここ、俺んち」

「ここが……」

 五十嵐くんの家は、私の家とそう変わらない、普通の家でした。庭にチラリとバスケットゴールが見えること以外は……。

「親には友達っつった方がいいか?」

 ドアを開ける直前、五十嵐くんはそんなことを聞いてきました。

「友達……」

 私は意味もなく復唱しました、が……。

 その単語を口にした瞬間、チクリと、胸に嫌なものが走りました。

 いや、だからと言って、付き合っている人と言ってしまうのは……。

 ……。

「なんか恥ずかしいから、友達がいいかな」

「了解」

 五十嵐くんは、特にガッカリする様子もなく受け入れてくれました。

 ガッカリしない……、ガッカリしないのか……。

 いや、私の方こそ、何にガッカリしているのでしょう。

 


 

35

 

「ただいま」

 五十嵐くんは家のドアを開けると、部屋の奥に向かって言いました。すると、五十嵐くんのお母さんでしょうか……が、「おかえり」と、台所らしき部屋からヒョイっと顔を出しました。

「今日、友達来てるから」

「お邪魔します……」

 私は事前に相談したように、友達ということで自己紹介をしました。

「友達! 悠介が友達なんて、珍しい!」

 五十嵐くんのお母さんは、そう言って目を丸くしました。五十嵐くんは「うるさいな」と、耳を赤くさせていました。あ、そこは赤くなるのですね……。

「勉強するから、入ってくるなよ」

「はいはい」

「飲み物は自分で用意するからな」

「はいはい」

 五十嵐くんとお母さんは、そんなやり取りをしていました。私はただ黙ってそれを見ることしかできませんでした。五十嵐くんのお母さんは綺麗な人で、どことなく五十嵐くんに似ていて……この人から五十嵐くんが生まれ、この人によって育てられたのだと思うと妙な気持ちになりました。

 それから私は二階の部屋に案内されました。五十嵐くんの部屋だそうです。

「お邪魔します……」

 部屋の中は、私の部屋と違い、驚くほど整理されていました。

 中央には、木製の丸いテーブルと、二つの紺色のクッションがあります。クッションは二つとも同じデザインでしたが、片方は新品らしきもので……私はこっちに座れと新品らしい方のクッションを勧められました。それから五十嵐くんは、飲み物を持ってくるからと、廊下へ消えていきました。私は部屋に一人になりました。

 ……五十嵐くんの匂い。

 ……。

 ……いや何を考えているんだ!

 なんだか申し訳なくなり、私は、鼻呼吸をやめて口呼吸に切り替えました。しかし意識すればするほどに、息の仕方がわからなくなっていきます。

 ああ、本当に、私は何をやっているのでしょう……。

 頭がぼーっとしてきたところで、五十嵐くんが帰ってきて、驚いたように私を見ました。

「おい、大丈夫か?」

「大丈夫……本当に大丈夫だから……」

 私は曖昧に、へへと笑いました。

 五十嵐くんは小さく「なんかあったら言えよ」と言うと、テーブルにお茶のグラスを置き、私の向かいに座りました。

「……」

「……」

 さて、どうすればいいのでしょう。

 私は、友達の家にすら、ろくに来たことがありません。ましてや、付き合っている人の家など……。

 ……。

 部屋の中には、時計の針の音だけが響いています。

 あまりに静かで、お互いの呼吸の音すら、聞こえるようで……。

「飲めよ」

 五十嵐くんは、突然言いました。

「あ、じゃあ、いただきます……」

 勧められて、私は、素直にグラスを手に取りました。そうして口をつけ……普通に飲もうとしたつもりでした。ですが、

 ゴクリ、

 と、やけに大きく、飲み込む音が響きました。

 あっ……。

 羞恥、だけじゃない。何か自分の奥のものをさらけ出してしまったような、言いようのない感覚。

 ……いや普通に、今の音は生々しすぎた。

 変に、思われなかったか。

 グラスに口をつけたままチラリと五十嵐くんを見ると、じっと、こちらを見ていました。

 見ている……。

 ものすごく、見ている……。

 私は本格的に恥ずかしくなって、「このお茶、おいしいね」と誤魔化しました。五十嵐くんは「おう」とだけ頷きました。

「五十嵐くんも、飲みなよ……」

「いや、俺はいい……」

「なんで……」

「喉かわいてない……」

 そう言って五十嵐くんは、壁の方に顔を背けました。

 私だけ、不公平です……。

 やっぱり、何か意識されたのでしょうか。

 だからといって、何かを言ったらもっと恥ずかしい。

 どうにもできず、私も床の方を向いて、意味もなく指をいじり始めた時でした。

「俺、お前のこと見過ぎだよな……」

「えっ」

「あ、いや……」

 そう言うと五十嵐くんは、片手を曖昧に持ち上げては首の後ろを触り、「今の忘れてくれ……」と消えそうな声で言いました。

 ……確かに、視線は感じましたが。

 まさか自分から言ってくるなんて。

 私は言ってみました。

「……五十嵐くん、そんなに見てたの?」

「いや、見てない」

「でもさっき見てたって……」

「気づいてなかったならいい」

「……見てたんだ」

「……悪い」

「悪くないよ、もっと見て」

「……!?」

 五十嵐くんは小さく目を見開きました。

「……」

 ……あれ、今私は何を言いました?

 ……。

「あ、俺……」

 急に顔が熱くなり、私は、ふらふらとあちこちに視線を彷徨わせました。すると今度は五十嵐くんが、顔を真っ赤にさせて「お前、そういうことさ……」と言い、言葉を途切れさせては、「あんまりさ、その、誰にも言うなよ」と、消えかけの声で俯いてしまいました。

 誰にも言うなよって……そんなセリフ……。

「何それ、言わないよ……」

「……」

「見られるの得意じゃないし……」

「そういう話じゃねえ……」

「うん……」

 知っています。わかっています。そういう話じゃないのは、理解しています。

 ただ、口がおかしな方向に動いてしまったのです。

「あのさ」

「なに……?」

「そっち、行ってもいいか……?」

「えっ……」

「嫌なら……」

「いっ、嫌じゃない!」

 つい、大きな声が出てしまいました。

 ひどく上ずった声でした。

「嫌じゃないよ……」

「……」

「こっち、来て……」

「……」

 五十嵐くんは無言で立ち上がって、ゆっくりと歩いてきました。そうして妙に慎重に、慎重に、私の隣……触れるか触れないかくらいの距離に、腰を下ろしました。

 五十嵐くんの体温が、空気越しに、伝わってくる。

 五十嵐くんの、呼吸の音、心臓の音まで……。

「なあ」

「うん」

「手、握ってもいいか……?」

「……うん、いいよ」

 私が曖昧に左手を差し出すと、五十嵐くんは少し迷ったように手を彷徨わせ……それからそっと、私の指に、自分の指を滑り込ませました。

 指が、絡み合う。

「あっ、その、五十嵐くん……」

「……なんだよ」

「いや……」

「……」

「……なんでもない」

 普通の友達じゃ、ないこと。

 本当に、ただの友達じゃなくなったんだ。

 本当に、付き合ったんだ。




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