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恋人のやり方がわからない 8

36

 

 気がつけば窓の外は、赤く、暗くなっていました。空には月と、点々とした星が浮かんでいます。

 結局、手を繋いだだけで、終わった。

 お喋りも、ゲームも、勉強も、それらしいことは何もしなかった。

 そんなことがあるのか。

「成瀬、送ってく」

「大丈夫だよ、一人で帰れる……」

「俺が送りたい」

「……じゃあ、送ってもらおうかな」

「ありがと」

 ありがとって……。

 一階に降りると、五十嵐くんはお母さんに「ちょっと出かけてくる」と言いました。その言い方が妙に雑で、私は内心少しだけ笑ってしまい、それと同時に、ああ、自分は丁寧に扱われていたのだなと、遅れて自覚しました。

 いや、昔の五十嵐くんって、こんなに丁寧だったか?

 ……まあ、いいか。

 夜風が、そっと頬を撫でていきます。

「……今日は天気がいいね」

「そうだな」

「月がよく見えるよ」

「お前、月も好きなのか?」

「そうだね、結構好きかな……月も好きだし、雲とか雨とかも……」

 雨……。

 ふと、五十嵐くんに傘を貸してもらった時のことが浮かびました。

 浸っているところを見られて、勘違いで傘を貸してくれて、初めてまともに喋ったと思ったら、その後は無言で……。

 あの時は、まだ、友達ですらなかったんだよな……。

 ……。

 急に、胸がドキドキしてきました。このままでは、緊張が伝わってしまうのではないか……と思いましたが、五十嵐くんは、小さく、「いいな、それ」と言うだけでした。

 五十嵐くん、丁寧だけど、やっぱり五十嵐くんだ。

「成瀬のそういう話、もっと聞きたい」

 ……そういうところも、五十嵐くんだ。

「……そんなに話すようなことはないよ……五十嵐くんは?」

「俺は……どうだろうな」

「あんまり自然は見ない……?」

「見ないな……」

 そう言って空を見上げると、五十嵐くんは、「やっぱ三重に見える……」と呟きました。

「三重……?」

「俺、乱視なんだよな」

「そうなんだ……?」

「生活には困んねえから、メガネもコンタクトもつけてねえ」

「へぇ……?」

 なんですかその情報。なんで視力の悪さで、そんなに堂々としているのですか。

「でもお前が綺麗だと思うものちゃんと見らんねえのは……ちょっとあれかもな」

 ……なんで急に、そんな爆弾を投げてくるのですか。

「……普通に便利になるし、いいと思うよ」

「いや、俺は、お前が好きなものを……」

「わかってる!」

 また、つい、大声が出てしまいました。

「……急に声でけえよ!」

「わかってる……」

 五十嵐くんが、わざわざ恥ずかしいことを言い直すからです!

 ……なんて、私は、こんなにも不安定な人間だったでしょうか。

 ……五十嵐くんも、こんなに、ぐいぐいと来る人だったでしょうか。

「……とりあえず、メガネは買うといいんじゃないかな」

「やっぱそうか……」

「俺は裸眼だけど」

「……」

 そう言うと五十嵐くんは小さく目を見開き、「お前、目いいんだな」と呟きました。それから、「あんなに本読んでるのに」、とも。

 


 

37

 

「はよ、成瀬」

「おはよう、五十嵐くん」

 翌朝五十嵐くんは、私が机に着いた瞬間にこちらに来ると、でかい雲があったと報告して去っていきました。

 お弁当も一緒に食べました。放課後も一緒に帰りました。家に行くこともありました。

 それが、何度か続きました。

 慣れてきた……のでしょうか。まだ、よくわからない。部屋の中で口呼吸をするのはやめましたが、それでも、よくわからない。一緒に過ごすなんてのは、付き合う前からやっていたことのはずなのですが。

 ……。

 付き合ってから、七回目の帰り道のことでした。

「あのさ、成瀬」

「なに?」

「夜にライン送るのとか……アリか?」

「ライン……」

 ラインって、あれですか。あの、メッセージアプリですか。

 親としか使っていないのですが……。

 ああ、あと、クラスのグループラインにも入っていました……。

「いいよ」

「じゃあ、今日送ってみるな」

 そう言って五十嵐くんは、前を向きました。

 ライン一つにも、許可を取るのか……。

 いやでも、急に送ったら気持ち悪いから、許可は取った方がいいのか……。

 ……わからない。親としかやりとりしない自分には、何が普通なのか、わからない。

 でもまあ、いちいち確認してくれるのは、かなりありがたい。

「なあ、今日も家来る?」

 家……。

「……行く」

 私は内心ドキドキしながら答えました。行ったところで、また手を繋ぐだけで終わるのでしょうが。

 でもそれが、それだけのことが、私にとってどれだけ重大なことなのか……私は多分、誰にも言えません。

 ……私とは、こんなにも耐性のない人間だったのでしょうか。

 


 

38

 

 夜、私はいつものように、ベッドの上で一人寝転がっていました。机の上には英語の参考書を広げてありますが、どうにも触る気になれません。

 今日も結局、ずっと手を繋いでいた。

 手を繋ぐだけで、あっという間に時間が過ぎてしまった。

 ただ、手を繋いでいただけなのに。

「はぁ……」

 出てきたのは、びっくりするくらいに甘いため息で、本当に驚いて、自分で引いてしまいました。

「なんで、こんな……」

 こんなにも自分がこんなにおかしくなってしまうなんて、聞いていません。

「変だよ、こんなの……」

 ぼんやりと天井を眺めていたら、視界の端で、スマホが小さく光りました。

 通知。

 ぼんやりと手を伸ばして、少しばかり操作をした時でした。

「っ、五十嵐くん!」

 来ていたのは、五十嵐くんからのラインでした。

 あれって、本当だったんだ。本当にライン、送ってきてくれたんだ!

 そろりとタップすると、まっさらな青い画面の上に、「今日はありがとう」とだけ書かれたメッセージが送られてきていました。

 あまりにシンプル。あまりに五十嵐くんすぎる。

 なんか、素朴。

 なんか、可愛い。

「あっ、返信しないとだよね」

 こちらこそありがとう……これでいいだろうか。

 でも、シンプルすぎて、そっけないと思われてしまうだろうか。

 いやでも、それ以上のものは思いつかない。

 嬉しかったよ? 楽しかったよ?

 大好きだよ?

 ……。

 ……いやいや、そんな。

 私は結局「こちらこそありがとう」とだけ打ち込んで、何度も何度も読み返し、誤字がないことを確認して、それから、送信ボタンを押しました。いつの間にか、私の心臓の動きはドキドキと早まっていました。

 ……大丈夫だよね? 変なこと、書いてないよね?

 既読はすぐにつきました。

 返信も、すぐに来ました。

 内容は「よかった」という短い一文。それから、にっこり笑う三毛猫の可愛らしいスタンプ。

 ……。

 ねっ、猫!?

 見間違いか? 五十嵐くんが、猫!? そんなことがあるのか? いやでも五十嵐くんだし、普通にあり得るのか? などとスマホを凝視していたら……猫のスタンプは取り消され、代わりに、シンプルな黄色いサムズアップのスタンプが送られてきました。

「え、えぇー……」

 なぜ消したのですか……。

 五十嵐くんは、バレていないと思っているのでしょうか。いや、私は自分のメッセージを読み返していたところでしたから、しっかりとラインを開いていました。つまり、既読はしっかりとついていたはずです。

「猫、気になりすぎる……」

 私は無機質なサムズアップを眺めながら、ぎゅっとスマホを握りしめました。

「見てなかったことにすべきかな……」

 でも、既読つけましたよ……?

「あ、こっちからかわいい猫ちゃんスタンプを送ってみたらどうだろう」

 そうすれば、五十嵐くんも、また猫ちゃんを送ってくれるでしょうか。

「俺も持ってたよね、スタンプ……」

 そうです、一応これでも、私は猫ちゃんのスタンプを持っているのです。

 黒猫のスタンプ。かわいいとも無難とも、少しだけスタイリッシュとも取れる、男子高校生らしい絶妙なラインを狙ったもの。といっても親としか、使ったことがないのですが……それでも、五十嵐くんに送るには、ちょうどいいのでは……。

「あ、でも……」

 もしかしたら五十嵐くんは、さっきの猫ちゃんスタンプを本当に恥ずかしいと思っているかもしれない。

 五十嵐くんはあんな感じですが、意外と照れます。であれば、私が可愛らしい猫ちゃんのスタンプを送れば、五十嵐くんのやったことを蒸し返し、傷つけてしまうかもしれません。

「……わからない」

 結局私は、「俺も」という文面の末尾に、にこりと笑う絵文字だけをつけた短いメッセージを送りました。デフォルトで搭載されているだけの、シンプルな絵文字。これくらいなら、いいですよね?

 送信の直後、ポンと既読がつきました。

 あ……。

 見てる。画面の向こうに、五十嵐くんがいるんだ。

 今、いるんだ。

 ……なら、もっと、喋りたい。

 でも、喋ることがない。

 今は家なのだから、学校では恥ずかしくて言えないようなことだって言えるはずです。くだらないことは……雲だの蛾だの、割といつも言っていますが、もっとくだらなくて、もっと本音で、もっと親密なものでもいいはずです。

 例えば、キスしたいな、とか。

 ……。

 ……今、何を考えた?

「っ……!?」

 急に猛烈に恥ずかしくなり、私はアプリを閉じると、急いでスマホを枕の下に隠しました。

 恥ずかしい。おかしい。こんなの自分じゃない。怖い。

 


 

39

 

「成瀬、今日も俺んち来る?」

 翌日の帰り道、五十嵐くんはいつものように誘ってくれました。

 朝も昼も少しだけ喋りましたが……結局、猫のことには触れませんでした。

「行く」

 多分、この後も、触れられない気がします。

 触れたら、何かが壊れてしまう気がします。

 


 

40

 

 いつものように、二階の部屋に案内されて、お茶を出される。ほとんど手をつけないまま向かい合って、少ししてから五十嵐くんが「いいか」と聞く。そうして五十嵐くんが静かに立って、隣に座る。そうして手を重ねて、指を絡める。

 もう何度もやっているのに、まだ慣れない。胸の奥が、おかしくなる。

 キスでも、それ以上のことでもないのに。

 キス……。

 それ以上……?

 いや、何を考えているんだ。

 横を見ると、いつもよりもずっと近い距離に五十嵐くんがいて。

「……」

「……成瀬?」

「あっ、ごめん、なんでもない……」

「……そうか」

 ……見過ぎてしまった。

 そうして、また無言になりました。

 無言。

 静か。

 静かすぎて、やっぱり、お互いの息の音も、心臓の音も聞こえてしまいそう。

「成瀬」

 突然、五十嵐くんが口を開きました。

「……なに?」

「お願いが、あるんだけど……」

 ……お願い?

 ……キス……とか。

 いやいやいやいやそんなまさか!

 でもそのまさかも、今なら、ありえないわけじゃない。

 そうして、私は、ドキドキしながら待っていたのですが……、

 五十嵐くんは口ごもって、なかなか言い出しません。私はもう一度聞きます。

「お願いって……?」

「その……」

 まだ、言わない。

 そこから十何秒、待っていたでしょうか。

 私がじっと見続けていると、五十嵐くんは顔を真っ赤にして、

「俺のこと、名前で呼んでほしい……」

 と、消えそうな声で言いました。

「名前……」

 ……名前!!

 名前!!

 あまりに小さなお願いに、すっかり拍子抜けしてしまいました。

 なんだ、名前を呼ぶくらい!

「悠介くん……これでどうかな」

 私はそう呼んでみました。ただ普通に呼んだだけのつもりでした、が……。

「……」

 ……なるほど、これは口に出すと、なかなか照れる。

 妙に熱くなってきてしまい、私はパタパタと顔をあおぎました。

 五十嵐くんはいつの間にか顔を背けていて、「これ、やばいな……」と呟きました。耳は真っ赤になっていて、向こうを向いているのに、何一つ隠せていません。それを見てもっと私は熱くなってしまいました。

「ねえ、五十嵐く……じゃなくて、悠介くん」

「……」

「俺も、名前で呼んでほしい」

「……律」

「……」

「……」

「……」

 これは……。

「待って、これ、照れちゃうね……」

「だろ……?」

 だろ? って……。そっちから言い出したのではないですか!

「なんかもう平気になった。もう一回呼んでくれ」

 まだ顔、赤いですけど……。

「……悠介くん」

「……!」

「悠介くん」

「……!!」

 ……五十嵐くんの目が、わかりやすくキラキラしていく!

「俺、お前のこと律って呼ぶからな……」

「いいよ、好きにして……」

 何が「好きにして」でしょう! 自分から呼んでほしいと言ったのに!

「なあ、もうちょっとくっついてもいいか……」

「うん……」

 私が頷くと、五十嵐くん……ではなく、悠介くんは、そっと身体を寄せてきて……。

「あ……」

 肩と肩が、ちょんと触れました。

 これは、初めてだ。

「……」

 心臓が、暴れ出していく。

 痛いくらいに……。

「お前……心臓の音すげえな……」

 ……悠介くん!

「いっ、言わないで!」

「悪い……」

「……」

「俺も、緊張してるから……」

「……」

 ……なんの報告ですか。

「だから、お前も、こうなってるんだなって、思って……」

「何それ……」

「……」

「……」

 また、静かになった。

 うまく、息ができない。

 息の仕方を、忘れてしまった。

 なんだか、身体がおかしい気がする。

 でも、どうすればいいかわからない。

「なあ、今日何時までいられる……?」

 五十嵐くんは、突然聞いてきました。

「何時だろう……わかんない……」

 そんなこと、気にしたことがない。

 でも、少なくとも、いつも帰る時間は、もう過ぎている。

「じゃあもうちょっとだけ、いいか……?」

「うん……」

 そう言うと、悠介くんはさらに身体を寄せてきました。

 密着、している……。

 ……。

 熱い。

 熱くて、仕方がない。

 キスしたいと、言ってしまおうか。

 ……。

 ……いや、今は違う気がする。

 私は目を閉じて、悠介くんに身体を預けました。

 悠介くんも、そっと、受け止めてくれました。

 



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